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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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20/41

第20話 久と有栖の距離

五月の公園は、光も影も、そして人の距離もよく見える場所でした。


この一話では、

「撮れないもの」と「撮れるもの」

その境界線が静かに浮かび上がります。


久の視線、有栖の沈黙、佳奈の太陽のような言葉。

そして、それらをそっと見つめる実結の目。


写真部の中で、

“言わない感情”がどんなふうに滲むのか──

そんな距離の物語です。

 土曜日の撮影は、白石区の公園だった。


 五月の公園は、緑が一気に出てきていた。四月の終わりまで枯れた草だったところに、若草色の芽が出て、一週間でもう膝の高さまで伸びていた。北海道の植物は、短い夏に向かって急いでいるように見えた。


 部員がそれぞれの方向に散った。


 坂上と河合は、公園の外周の撮影に出かけた。佳奈はOM-4Tiを手に、池の方へ歩いていった。友里子はすでにGR1を構えて、ベンチの方へ向かっていた。


 実結は、しばらくその場に立って、どこへ行こうか考えた。


 久が、池の方へ歩いていくのが見えた。

でも佳奈の後を追うのではなく、少し迂回するような道を選んでいた。


 実結は気になって、久の少し後ろをついていった。


     * * *


 池の縁に、有栖が立っていた。

 Pen EE-3を手に持って、池の水面を見ていた。水面に映る空の色を、じっと見ていた。

 久は、有栖から五メートルほど離れた場所で足を止めた。


 しゃがんだ。


 低い視点から、有栖の方向を見た。でも有栖を撮るのではなかった。有栖のそばにある、池の縁の石を見ていた。石の質感を、低い視点から確かめていた。


 実結には、わかった。わかってしまった。


 久は有栖を撮りたいのだと思った。でも撮れなかった。だから有栖の近くにいる理由として、石を撮っていた。ごまかした。

 有栖は、久が来たことに気づいていないのか、気づいているけれど知らないふりをしているのか、どちらかわからなかった。ただ池の水面を見続けていた。


 実結はOM-40を構えた。


 久を、フレームに入れた。


 しゃがんで石を撮っている久の横顔。その視線の先に、有栖がいる。でもそれは画面には写らない。久の視線の方向だけが、画面に残る。


 シャッターを切った。


     * * *


 昼過ぎ、公園のベンチに全員が集まった。


 佳奈がコンビニのおにぎりを配った。

 久は有栖から少し離れたベンチに座っていた。有栖は佳奈の隣に座っていた。


「今日は何を撮ったの?」と実結は久に聞いた。

「池の縁の石と、水面と」と久は答えた。少し間を置いて。「あと、草の根元を」

「草の根元?」

「根元から見ると、茎の構造が見えて。植物も構造物だから」と久は言った。照れた様子で。

「インフラとしての植物」と実結は言った。

「そう、そんな感じで」と久は少し笑った。


 実結は久を見ていた。


 写真の話をしている時の久は、言葉が増えた。普段は「はい」「わかりました」で済ませるのに、カメラを持った話になると、語彙が出てきた。


「野村くんって、有栖ちゃんのこと撮ったことある?」と実結は聞いた。


 久が、固まった。


 一秒。


「ないです」と言った。声が少し低くなった。

「なんで?」

「……撮り方がわからなくて」と久は言った。石を見ながら。「構造物は、ちゃんとそこにあるから撮れる。でも人は、動くから」

「それだけじゃないでしょ」と実結は言った。


 久が実結を見た。


「動くのが怖いんじゃなくて、ちゃんと撮れなかったら嫌だから撮れないんじゃないの」


 久は何も言わなかった。

 でも耳が、少し赤くなった。


     * * *


 帰り道、実結は佳奈と並んで歩いた。


「野村くんって、有栖ちゃんのこと好きだよね、たぶん」と実結は言った。

「知ってる」と佳奈は即答した。

「知ってたの?」

「前から」と佳奈は言った。あっさりと。「有栖は気づいてないけど」

「気づいてないの?」

「有栖は私しか見てないから」と佳奈は言った。自慢でなく、ただの事実として言った。


 実結は少し考えた。


「それ、どう思う?」

「どうとも思わない」と佳奈は言った。歩きながら。「有栖が好きなものを好きでいればいい。私は有栖のこと、後輩として好きだし」

「佳奈は、そういうことに動じないね」


「動じないというか」と佳奈は言った。少し考えてから。「みんながそれぞれのものを見てて、それがうまく噛み合ったり噛み合わなかったりするのが、面白いと思ってるから。久は有栖を見てて、有栖は私を見てて、私は光を見てる。それでいい」


 実結は佳奈を見た。

 みんながそれぞれのものを見ている。


「佳奈って」と実結は言った。「写真家みたいなこと言う」

「写真部だから」と佳奈は笑った。


 商店街の入口に、喫茶小鳥遊の看板が見えてきた。

 夕光を受けた看板の文字が、金茶きんちゃ色に輝いていた。


 実結はOM-40を構えた。

 看板を、フレームに入れた。


 文字の輝きと、その後ろの空の薄紅うすくれない色を、一枚に収めた。

 シャッターを切った。


 佳奈が横で「何撮ったの」と言った。


「看板と、空」と実結は答えた。

「いい時間に帰ってきたね」と佳奈は言った。


 確かに、と実結は思った。


 今この時間の光を、撮りたいと思って撮れた。

 それだけのことが、四月の初めとは全然違っていた。

久が撮れなかったもの。

有栖が見ていなかったもの。

佳奈が迷わず見ているもの。

そして実結が、ようやく見えるようになってきたもの。


この一話は、

「みんながそれぞれ違う方向を見ている」

という佳奈の言葉が、そのまま風景になった回でした。


人の距離は、写真の構図みたいに簡単には測れない。

でも、光の中に立つと、少しだけ輪郭が見える。


次の話では、

その“輪郭”が、実結の中でさらに深く結ばれていきます。

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