第20話 久と有栖の距離
五月の公園は、光も影も、そして人の距離もよく見える場所でした。
この一話では、
「撮れないもの」と「撮れるもの」
その境界線が静かに浮かび上がります。
久の視線、有栖の沈黙、佳奈の太陽のような言葉。
そして、それらをそっと見つめる実結の目。
写真部の中で、
“言わない感情”がどんなふうに滲むのか──
そんな距離の物語です。
土曜日の撮影は、白石区の公園だった。
五月の公園は、緑が一気に出てきていた。四月の終わりまで枯れた草だったところに、若草色の芽が出て、一週間でもう膝の高さまで伸びていた。北海道の植物は、短い夏に向かって急いでいるように見えた。
部員がそれぞれの方向に散った。
坂上と河合は、公園の外周の撮影に出かけた。佳奈はOM-4Tiを手に、池の方へ歩いていった。友里子はすでにGR1を構えて、ベンチの方へ向かっていた。
実結は、しばらくその場に立って、どこへ行こうか考えた。
久が、池の方へ歩いていくのが見えた。
でも佳奈の後を追うのではなく、少し迂回するような道を選んでいた。
実結は気になって、久の少し後ろをついていった。
* * *
池の縁に、有栖が立っていた。
Pen EE-3を手に持って、池の水面を見ていた。水面に映る空の色を、じっと見ていた。
久は、有栖から五メートルほど離れた場所で足を止めた。
しゃがんだ。
低い視点から、有栖の方向を見た。でも有栖を撮るのではなかった。有栖のそばにある、池の縁の石を見ていた。石の質感を、低い視点から確かめていた。
実結には、わかった。わかってしまった。
久は有栖を撮りたいのだと思った。でも撮れなかった。だから有栖の近くにいる理由として、石を撮っていた。ごまかした。
有栖は、久が来たことに気づいていないのか、気づいているけれど知らないふりをしているのか、どちらかわからなかった。ただ池の水面を見続けていた。
実結はOM-40を構えた。
久を、フレームに入れた。
しゃがんで石を撮っている久の横顔。その視線の先に、有栖がいる。でもそれは画面には写らない。久の視線の方向だけが、画面に残る。
シャッターを切った。
* * *
昼過ぎ、公園のベンチに全員が集まった。
佳奈がコンビニのおにぎりを配った。
久は有栖から少し離れたベンチに座っていた。有栖は佳奈の隣に座っていた。
「今日は何を撮ったの?」と実結は久に聞いた。
「池の縁の石と、水面と」と久は答えた。少し間を置いて。「あと、草の根元を」
「草の根元?」
「根元から見ると、茎の構造が見えて。植物も構造物だから」と久は言った。照れた様子で。
「インフラとしての植物」と実結は言った。
「そう、そんな感じで」と久は少し笑った。
実結は久を見ていた。
写真の話をしている時の久は、言葉が増えた。普段は「はい」「わかりました」で済ませるのに、カメラを持った話になると、語彙が出てきた。
「野村くんって、有栖ちゃんのこと撮ったことある?」と実結は聞いた。
久が、固まった。
一秒。
「ないです」と言った。声が少し低くなった。
「なんで?」
「……撮り方がわからなくて」と久は言った。石を見ながら。「構造物は、ちゃんとそこにあるから撮れる。でも人は、動くから」
「それだけじゃないでしょ」と実結は言った。
久が実結を見た。
「動くのが怖いんじゃなくて、ちゃんと撮れなかったら嫌だから撮れないんじゃないの」
久は何も言わなかった。
でも耳が、少し赤くなった。
* * *
帰り道、実結は佳奈と並んで歩いた。
「野村くんって、有栖ちゃんのこと好きだよね、たぶん」と実結は言った。
「知ってる」と佳奈は即答した。
「知ってたの?」
「前から」と佳奈は言った。あっさりと。「有栖は気づいてないけど」
「気づいてないの?」
「有栖は私しか見てないから」と佳奈は言った。自慢でなく、ただの事実として言った。
実結は少し考えた。
「それ、どう思う?」
「どうとも思わない」と佳奈は言った。歩きながら。「有栖が好きなものを好きでいればいい。私は有栖のこと、後輩として好きだし」
「佳奈は、そういうことに動じないね」
「動じないというか」と佳奈は言った。少し考えてから。「みんながそれぞれのものを見てて、それがうまく噛み合ったり噛み合わなかったりするのが、面白いと思ってるから。久は有栖を見てて、有栖は私を見てて、私は光を見てる。それでいい」
実結は佳奈を見た。
みんながそれぞれのものを見ている。
「佳奈って」と実結は言った。「写真家みたいなこと言う」
「写真部だから」と佳奈は笑った。
商店街の入口に、喫茶小鳥遊の看板が見えてきた。
夕光を受けた看板の文字が、金茶色に輝いていた。
実結はOM-40を構えた。
看板を、フレームに入れた。
文字の輝きと、その後ろの空の薄紅色を、一枚に収めた。
シャッターを切った。
佳奈が横で「何撮ったの」と言った。
「看板と、空」と実結は答えた。
「いい時間に帰ってきたね」と佳奈は言った。
確かに、と実結は思った。
今この時間の光を、撮りたいと思って撮れた。
それだけのことが、四月の初めとは全然違っていた。
久が撮れなかったもの。
有栖が見ていなかったもの。
佳奈が迷わず見ているもの。
そして実結が、ようやく見えるようになってきたもの。
この一話は、
「みんながそれぞれ違う方向を見ている」
という佳奈の言葉が、そのまま風景になった回でした。
人の距離は、写真の構図みたいに簡単には測れない。
でも、光の中に立つと、少しだけ輪郭が見える。
次の話では、
その“輪郭”が、実結の中でさらに深く結ばれていきます。




