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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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21/41

第21話 坂上と河合の間

部室に全員がそろう、少し特別な放課後。

暗室の順番を待ちながら、

それぞれの“距離”が静かに浮かび上がっていきます。


坂上と河合の、

近すぎず、遠すぎず、

言葉よりも“間”で語られる関係。


そしてその“間”を見つめる実結の目も、

またひとつ深くなっていく──

そんな一話です。

 木曜日の放課後、部室に部員が揃っていた。


 珍しいことだった。

 土曜の撮影以外で全員が同じ時間に部室にいることは、あまりなかった。

 でもその日は、佳奈が「みんなで現像しよ」と言い出して、なんとなく全員が残ることになった。


 暗室は数人ずつしか入れないから、順番で作業した。


 待つ間、部室でそれぞれが過ごした。

 久は撮影した写真のメモを取っていた。

 有栖はライトボックスでネガを確認していた。

 友里子は壁の写真を眺めていた。


 坂上と河合は、二人でプリントの並びを検討していた。


     * * *


 実結は、椅子に座って焼き上がったばかりの写真を確認しながら、二人を横目で見ていた。


 坂上がプリントを壁に並べながら、何かを言った。声は聞こえなかった。河合が少し笑って、首を振った。坂上が困ったような顔をして、別のプリントを取り出した。


 二人の距離が、いつも一定だった。

 近すぎない。でも遠くもない。

 話しながらも、二人は微妙に体が相手の方を向いていた。正面ではなく、斜めに。それが、実結には面白かった。正面を向けない理由が、二人の間にある気がした。


「坂上先輩と河合先輩って」と実結は友里子に小声で言った。「仲いいよね」

「うん」と友里子は答えた。壁の写真を見ながら。

「なんか、ただの仲良しじゃないような」

「そうね」と友里子は言った。それだけだった。

「友里子は知ってる? 何か」

「見れば、わかる」と友里子は言った。


 実結は二人を見た。


 坂上がプリントを壁に当てて、河合に意見を聞いていた。河合が答えると、坂上がプリントの位置を少し変えた。また河合に聞いた。河合が答えた。


 その繰り返しが、部長と副部長の仕事のやり取りのように見えた。でも仕事のやり取りにしては、少し間が多かった。答えてから、次を言うまでの間が。


「長い」と友里子は静かに言った。

「え?」

「二人の間が、長い。答えてから次を言うまでの間が。普通の会話より、長い」


 実結は改めて見た。


 確かに、間があった。河合が答えたあと、坂上が次を言うまでの、短い沈黙。その沈黙の中で、二人は少しだけ互いを見ていた。


「好きなんでしょ、お互い」と実結は言った。

「見れば、わかる」と友里子はもう一度言った。

「なんで言わないんだろ」

「部活の間は、言えないんじゃないかな」と友里子は言った。「言ったら、変わるから。今のままでいたい、っていうことかもしれない」


 今のままでいたい。


 その言葉が、実結の中で静かに響いた。

 言葉にしてしまうと、変わってしまう。変わることが怖いから、言わない。


 実結にも、言えないことがある気がした。

 でもそれが何なのか、まだはっきりわからなかった。


     * * *


 暗室の順番が実結に回って来た。

 引き戸を閉めた。緋色の世界に切り替わる。


 今日焼くのは、公園で久を撮った写真だった。


 池の縁でしゃがんでいる久の横顔。その視線の先には有栖がいたが、写真には写っていない。久の視線の方向だけが、画面の端に滲んでいた。


 ネガをキャリアにセットした。ピントを合わせた。


 像が投影された。


 久の横顔が、台の上に現れた。しゃがんでいるから、視線が低い。でもその視線の先に、確かに何かがある。何かを見ている目をしていた。


 印画紙をセットし露光し、現像液に沈める。

 像が浮かび上がってきた。


 久の横顔の、輪郭が出てきた。低い視点からの構図が、線路を撮る時と同じ角度だと気づいた。構造物を見る時と同じ目の高さで、有栖を見ていた。


 止め時だと思った。停止液に移した。


 作業灯の下で確認した。

 いい写真だと思った。そのまま定着液に移す。


 でもこれは、久には見せられないと思った。見せたら、久が何かに気づいてしまう。気づくことで、今の距離が変わってしまうかもしれない。


 変わることが怖いか、と実結は自分に問いかけた。


 答えはでなかった。わからなかった。

 でも、変わることを選ぶ権利は、久自身にあると思った。


     * * *


 部活の終わりに、坂上が「来週の撮影場所、どこにするか」と全員に聞いた。


「円山動物園」と佳奈が言った。

「動物園?」と坂上は言った。

「動物園のインフラが見たい」と佳奈は言った。

「動物園のインフラって何?」と実結は思わず言って、その内容がおかしくて笑う。

「柵とか、小屋とか、給水器とか。動物のために人間が作った構造物。野村が好きそうじゃん」


 久が「行きたいです」と即座に言った。


 それを聞いて、全員が笑った。


「じゃあ円山動物園」と坂上は言った。河合が「部長っ、あっさり決めすぎ」と笑った。


 その笑い声の中に、実結もいた。

 弾かれていなかった。透明でもなかった。

 来週の土曜日に、みんなで動物園へ行く。その予定が、実結の中にある。


 それだけのことが、胸の奥に温かく落ちた。

坂上と河合の“長い間”。

言葉にしないことで守っている距離。

変わることを恐れて、あえて動かさない関係。


その静かな緊張を見つめながら、

実結は自分の中にも“言えないもの”があると気づき始めます。


暗室で浮かび上がる久の横顔。

見せれば変わってしまうかもしれない写真。

変わることと、変わらないこと。

その境界線に、実結はそっと立っています。


次の話では、

その境界線が、さらに深い場所へ沈んでいきます。

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