第21話 化学式の詩
ゴールデンウィーク明け。
五味先生の化学の授業は、2年A組の3時間目にあった。
窓から差し込む薄香の光が、教室の床に斜めの四角い形を投げかける時間。
授業を受けながら、実結はその光の矩形が、どこまで移動をしていくかを、追いかけていた。
光は時間の経過に合わせ、確かに動いていた。
止まっているように見えて、1時間後には位置が変わっていた。
五味先生は教壇に立つと、白衣の裾を引いて、チョークを手にした。
「今日は、酸化還元反応についてだ」と織江は言った。
「酸化、と聞いて何を思い浮かべる? じゃあ、橘!」
「錆びる、とか」と、美乃梨が答える。
「そうだ。鉄が酸素と結びついて、酸化鉄になる。これが酸化」
織江が黒板に式を書きながら言った。
「実際の錆の生成はもっと複雑ではあるが……今日は四酸化三鉄を例にしよう」
3Fe + 2O₂ → Fe₃O₄
織江は、その式に下線を引く。
「では、還元は? 誰か、答えられるか?」
実結がそっと手を上げた。
「朝倉、答えてみろ」
指されて立ち上がると、実結が答えた。
「物質が酸素を失う現象です。あとは……電子を受け取る反応です」
言い終わると着席する。それを待って織江が言った。
「よし、正解だ。そして補足するならもうひとつ、酸化鉄で言うなら『酸化数が減る』ことだな」
振り返り教壇に戻りながら問いかける。
「さっき答えてもらった通り、還元というのは『酸素を失い手放す』ことだった。じゃあ、さっきの式で作った四酸化三鉄を、もう一度ただの鉄にもどすにはどうすればいいか……」
織江はチョークを手に、式を書いていく。
「答えは簡単。酸素を欲しがっている相手を一緒にして焼いてやればいい。一酸化炭素をいれてやれば、鉄から酸素を奪って二酸化炭素になってくれる。鉄の側から見れば『酸素を失った』から還元。一酸化炭素の側から見れば『酸素をもらった』から酸化となる。このセットを必ず対になる反応として覚えておくように」
一酸化炭素による還元: Fe₃O₄ + 4CO → 3Fe + 4CO₂
「ちなみに還元の相手は一酸化炭素じゃなくてもいい。例えば『水素(H₂)』を通しても同じことができる……」
織江は、先ほどの一酸化炭素による還元式のすぐ下に手際よくもう一つの反応式を書き加えた。
水素による還元: Fe₃O₄ + 4H₂ → 3Fe + 4H₂O
「酸化鉄から水素が酸素を奪い去って、水蒸気となって出て行く。鉄の側から見れば、これも立派な『還元』だ……この反応の利点は反応後に残るのが『水』だけという点だ。地球に優しい還元反応かもしれないな」
織江はそこでひと息ついて、続きを話し始めた。
「還元というのはね、隠れていたものが表に出てくる現象と言える。酸化されている物質が電子を受け取って、本来の姿に戻る。見えなかったものが、見えるようになる……」
そう言って、ひとつの式を黒板に書く。
半反応式: Ag⁺ + e⁻ → Ag
「例えば、モノクロの銀塩写真のフィルムを現像するときの還元反応はこのように明快な化学反応式で表すことができる……」
実結の手が、一瞬止まる。
顔を上げたとき、織江と目が合った気がした。
再び、ノートに書き留めていく。
「フィルムの表面には、感光乳剤として微細なハロゲン化銀——主に臭化銀(AgBr)が使われるが、その微結晶がフィルムベース上のゼラチン乳剤層に分散していて、結晶の中に銀イオン(Ag⁺)と、臭化物イオン(Br⁻)が規則正しく並んでいる……」
説明しながら、縦・横・高さの方向に規則正しく交互に並ぶ、銀イオン(Ag⁺)と、臭化物イオン(Br⁻)の立体格子を描く。
「カメラのシャッターを切って、フィルムの感光層に光(光子 hν)が当たった瞬間に変化が起きる。光が臭化銀の結晶に当たると、臭化物イオン(Br⁻)が光のエネルギーを吸収し、持っていた電子(e⁻)を外へ放出し、自分自身は自由な臭素原子(Br)になる」
織江が、光電効果の式を追加で書いた。
電子の放出(光電効果): Br⁻ + hν → Br + e⁻
「このとき放たれた電子(e⁻)は、結晶の中を高速で移動していく。結晶には製造過程で生じた微細な『欠陥——感光核や感光中心と呼ぶ――』があって、移動してきた電子はその欠陥にすっぽりとハマり、捕らえられる。これによって、欠陥部分がマイナスの電荷を帯びる」
ここで、織江が先ほど書いた半反応式に下線を引いた。
「マイナスに帯電した欠陥部分へ、結晶内を自由に移動できる銀イオン(Ag⁺)が引き寄せられてくる。銀イオンはそこにとどまっている電子を受け取って――これが還元だな――わずか数個の金属銀の原子(Ag)へ変化する」
そして、織江が『潜像』と書いて丸で囲む。
「この光によってうまれた金属銀の小集団のことを、『潜像』と呼ぶ。銀原子が小さすぎて、潜像の段階ではフィルムを見ても変化に気づけない。この数個の銀原子のかたまり(潜像)が存在する場所だけが、後から現像液を入れたときに化学反応の引き金になるんだ」
その下に、一般的な現像液で起こる反応式を書き加えた。
全体式: 2AgBr + C₆H₄(OH)₂ → 2Ag + 2H⁺ + 2Br⁻ + C₆H₄O₂
「一般的な現像液で使うハイドロキノンであれば、こういう式になる。見えなかった、潜像核に生じた臭化銀(AgBr)の結晶が、現像液によって選択的に還元されて、目に見える銀(Ag)に変わるんだ……」
ここで織江はひと呼吸置いた。
「モノクロ写真の『黒』で見える部分は、還元されて生まれた銀の粒……つまり、化学の言葉で言えば、現像とは還元反応なのよ。面白いでしょ?」
教室にはノートにペンを走らせる、複数の音が響いていた。
実結は得意げにフィルムの還元反応を説明している織江に視線を向けていた。
授業中、特に今日の酸化還元反応の授業については、暗室で作業をしているときの織江と重なって見えた。
見えないものを、見えるようにすることへの、静かな敬意のような強い意志を持った目がそこにあった。
* * *
授業が終わって、実結は廊下に出た。
水飲み場に向かおうとしたとき、後ろから声がかかる。
「朝倉……」
振り向くと、織江が白衣のポケットに手を入れて立っていた。
「はい」
「さっき、写真の現像の話をしていたとき、手が止まっていたでしょう?」
「……見てたんですか?」
「もちろん、授業中は生徒の様子をよく見ているからね……で、何か気になることでも?」
その問いに実結は素直な感想を述べた。
「今までなんとなくやっていたフィルムの現像という作業が、初めてちゃんと言葉にできた気がします」
「なるほど……」
「還元反応の説明にあった、『見えなかったものが、見えるようになる』というところが、スッと頭に入ってきました……すごく、わかりやすかったです」
「そうね……一点が変わると、全体の見え方も変わる。化学では、よくあることよ」
「これからは、現像が単なる作業じゃなくて、もっと……意識をしてできるようになるんじゃないかって……」
「あなたは、自分の中で何が変わったのか、ちゃんと気づいているのね……それは大事なことよ」
そう言い残し、織江は廊下を歩いて行った。
実結はその場に残り、その背中を見送った。
廊下の窓から、薄香の5月の光が相変わらず射し込んでいた。
* * *
放課後、部室で実結は、撮影会で撮ったフィルムの現像をはじめていた。
佳奈はすでに撮影会の分のフィルムの現像を終え、スリーブをライトボックスに載せてチェックをしているところだった。
実結は現像工程の準備として、佳奈の隣でダークバックに手を突っ込んで、未現像フィルムをリールに巻き付けていた。
ルーペを覗き、1コマ1コマのピントや構図などをチェックしながら、佳奈が話しかけてきた。
「五味ちゃんの授業、今日あったでしょ?」
「うん、あったよ。3限目」
「今日の授業では、何やってたの?」
「今日はね……酸化還元反応だった」
「あー、あれね」と佳奈は頷きながら、「昨日やったよ、うちのクラスも。現像が還元反応って話っしょ」
「そうそう、それ。知ってた?」
「うーん、なんとなくは」
「私はすごく、ピンときたというか、自分がやっていた『現像』という作業を、結果だけじゃなくて、その途中で何が起きているかまで理解できそうな気がしてる。もっと現像の作業が楽しくなる感じ」
「良いんでないかい? より深く関われるってことっしょ?」
「そうだね。理解することで、より望んだ形に持っていくことができるかもしれないね……」
実結は1本目のフィルムをリールに装填し終わると、2本目の作業に移る。
「先輩に聞いたんだけど、五味ちゃんは毎年、同じ授業で、フィルム現像の話するんだってさ」
「へぇ。そうなの?」
「五味ちゃんが化学の教師やりながら、写真部の顧問もやってる理由って、その辺にあるんじゃないかって思ってさ」
「どういう意味?」
「まさに、写真ってさ、化学じゃん?」とあっさりと、佳奈は言う。「光と薬品と時間でつくる化学。五味ちゃんはきっとそれが好きなんじゃないかな。教師として教えるのも化学で、趣味としての写真も化学。みたいな」
実結は2本目のフィルムをリールに巻きながら、考えた。
織江が写真部の顧問をしているのは、実家が村瀬写真館という地元で有名な写真館で、彼女がそこの出身だからだと単純に思っていた。
でも、もしかしたら……そうじゃないのかもしれない。
「佳奈さんは、写真を化学だと思って撮ってる?」と実結が尋ねた。
「私は……思ってないかも」と、佳奈は即答した。「写真は撮りたいから撮ってるだけで、撮るときまで化学を意識しないかなぁ。でも、五味ちゃんの授業を聞いたあとなら、暗室では化学をちょっと意識しちゃってるかな」
ちょうど2本目のフィルムをリールに巻き終えると、実結は立ち上がった。先に作業を終えた現像タンクと一緒に二つを抱え、暗室へ向かう。
「じゃあ、私は『還元反応』を実践してくるね」
「ははは……がんばってね!」
実結は暗室へ入ると、現像液をタンクへ注ぎ、一定のリズムで攪拌を始める。
光を受けて生まれた、目には見えない潜像。
今、このタンクの中では、それが銀の像へと変わり始めている。
実結は初めて、その反応を意識しながら、いつもより丁寧に攪拌を続けた。
見えなかったものが、今、ゆっくりと像を結ぼうとしていた。




