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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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22/41

第22話 相沢慎一、最初の接触

五月の光がゆっくり傾く放課後。

実結は、歩く速度の合う人間と初めて出会います。


相沢慎一──

撮らない人。

急かさない人。

ただ“見る”という行為を大切にしている人。


その落ち着いた歩幅が、

実結の中の何かと静かに重なっていく。


この一話は、

“見ること”の意味がもう一段深くなる回です。

 五月の中旬、実結は放課後の廊下を一人で歩いていた。


 部室に向かう途中だった。

 北棟へ抜ける渡り廊下で、前から男子が歩いてきた。


 生徒会の腕章をしていた。三年生だと思った。背が高くて、歩き方が落ち着いていた。急いでいない歩き方。でも目的地をちゃんと知っている歩き方。


 実結はすれ違おうとしたとき、「あの」と声をかけられた。


「写真部の人?」と男子が言った。


 実結は足を止めた。


「そうですけど」

「生徒会の相沢です」と男子は言った。「写真部に用があって、部室に行こうとしてたところで」


 ちょっと迷っている感じを受けた。


「一緒に行きましょうか」と実結は言った。


     * * *


 渡り廊下を並んで歩いた。


 五月の午後の光が、廊下の窓から差し込んでいた。白群びゃくぐん色の光が、二人の影を床に伸ばした。


「転入生の人ですよね」と相沢は言った。

「はい」

「いつから?」

「四月の最初から」と実結はすぐに返す。

「札幌は慣れましたか」

「慣れてきました」と実結は答えた。「最初は寒くて、東京と全然違うと思ったけど」

「東京か」と相沢は言った。「行ったことないな」

「行きたいですか?」

「そんなに」と相沢は言った。あっさりと。「ここで見たいものが、まだたくさんあるから」


 実結は相沢を横から見た。


 ここで見たいものが、まだたくさんある。


 それは、写真をやっている人間の言い方だと思った。でも相沢が写真部に所属しているとは聞いていなかった。


「写真、やるんですか」と実結は聞いた。

「やらない」と相沢は言った。「でも見るのは好きで」

「撮らずに見る専門ですか?」

「撮ると、どうしても撮ることを考えてしまいそうで」と相沢は言った。「ただ見ていたいから、撮らない」


 実結には、その感覚がわかった気がした。


 四月の最初、雪解けの光を見た時に、カメラを取りに行かなかった。ただ見ていた。あの時と、似た感覚だった。


     * * *


 部室の前に着いた。


 実結がドアを開けると、佳奈がライトボックスの前に座っていた。坂上が黒板に何か書いていた。


「相沢先輩」と佳奈が言った。立ち上がりもせず、でも声は明るかった。

「佳奈、元気か」と相沢は言った。

「生徒会の用?」

「文化祭の展示場所の確認。写真部は例年通り、北棟の廊下でいいか」

「坂上先輩に聞いてください」と佳奈は言った。坂上の方を向いて。「先輩、相沢先輩が来てます」


 坂上が振り向いた。


「ああ、相沢か。廊下展示、例年通りでいい。ただ、今年は縦の展示に挑戦したいから、少し場所を広めに確保してほしい」

「わかった。後で正式な書類送ります」


 相沢は実結を見た。


「写真部、入ったんですね」

「はい」

「秋の文化祭、楽しみにしてます」と相沢は言った。それだけ告げた。


 踵を返して、廊下へ出た。


    * * *


 部室に残って、実結はカメラを手に取った。

 佳奈が「相沢先輩と話したの?」と聞いてきた。


「廊下で会って、一緒に来た」

「どうだった?」

「どう、って?」と実結は言った。

「なんか変な人でしょ、相沢先輩」と佳奈は言った。「面白い変な人だけど」

「変、というか」と実結は言った。少し考えて。「落ち着いてる人だと思った」

「そう」と佳奈は言った。「あの人、急かさないから」


 急かさない。


 その言葉が、健三の評価と重なった。健三も、急かさない人だった。


 実結はOM-40のファインダーを覗いた。

 部室が、四角く切り取られた。


 佳奈がライトボックスに向かっている後ろ姿。壁の写真。北側の窓から差し込む、五月の午後の光。


 シャッターを切ろうとして、思い留まった。


 今は撮らなくていい、と思った。

 ただ、見ていた。

 フレームの外に出して、部室全体を見た。


 こういう時間があることが、実結には少し不思議だった。三月の終わりに透明なまま屋上のベンチに座っていた実結が、今ここにいる。


 自分の輪郭が、少しずつ鮮明になっていく気がした。


 現像液の中で、像が浮かび上がってくるように。少しずつ、少しずつ。


     * * *


 その夜、客間で実結は今日のことを思い返した。

 相沢が言った言葉が、頭に残っていた。


 ここで見たいものが、まだたくさんある。


 東京に行きたくない理由として言った言葉だった。でも実結には、別の意味にも聞こえた。

 今いる場所に、まだ見ていないものがある。だから動かない。急がない。ただ、ここで見る。


 実結は窓の外を見た。

 東札幌の夜が、静かに広がっていた。


 まだ見ていないものが、この街にある。

 その感覚は、怖くなかった。


 むしろ、明日が楽しみな感覚に、少し似ていた。

相沢の言葉は、

実結の心にゆっくり沈んでいきます。


ここで見たいものが、まだたくさんある。


撮らないことで守られる視界。

急がないことで見えてくる輪郭。

その静かな価値観が、

実結の“現像されつつある心”と響き合う。


今日の光を、ただ見ていられたこと。

それが実結にとって、

少しだけ未来を明るくする出来事だった。


次の話では、

その“静かな変化”がさらに深く結ばれていきます。

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