第22話 相沢慎一、最初の接触
五月の光がゆっくり傾く放課後。
実結は、歩く速度の合う人間と初めて出会います。
相沢慎一──
撮らない人。
急かさない人。
ただ“見る”という行為を大切にしている人。
その落ち着いた歩幅が、
実結の中の何かと静かに重なっていく。
この一話は、
“見ること”の意味がもう一段深くなる回です。
五月の中旬、実結は放課後の廊下を一人で歩いていた。
部室に向かう途中だった。
北棟へ抜ける渡り廊下で、前から男子が歩いてきた。
生徒会の腕章をしていた。三年生だと思った。背が高くて、歩き方が落ち着いていた。急いでいない歩き方。でも目的地をちゃんと知っている歩き方。
実結はすれ違おうとしたとき、「あの」と声をかけられた。
「写真部の人?」と男子が言った。
実結は足を止めた。
「そうですけど」
「生徒会の相沢です」と男子は言った。「写真部に用があって、部室に行こうとしてたところで」
ちょっと迷っている感じを受けた。
「一緒に行きましょうか」と実結は言った。
* * *
渡り廊下を並んで歩いた。
五月の午後の光が、廊下の窓から差し込んでいた。白群色の光が、二人の影を床に伸ばした。
「転入生の人ですよね」と相沢は言った。
「はい」
「いつから?」
「四月の最初から」と実結はすぐに返す。
「札幌は慣れましたか」
「慣れてきました」と実結は答えた。「最初は寒くて、東京と全然違うと思ったけど」
「東京か」と相沢は言った。「行ったことないな」
「行きたいですか?」
「そんなに」と相沢は言った。あっさりと。「ここで見たいものが、まだたくさんあるから」
実結は相沢を横から見た。
ここで見たいものが、まだたくさんある。
それは、写真をやっている人間の言い方だと思った。でも相沢が写真部に所属しているとは聞いていなかった。
「写真、やるんですか」と実結は聞いた。
「やらない」と相沢は言った。「でも見るのは好きで」
「撮らずに見る専門ですか?」
「撮ると、どうしても撮ることを考えてしまいそうで」と相沢は言った。「ただ見ていたいから、撮らない」
実結には、その感覚がわかった気がした。
四月の最初、雪解けの光を見た時に、カメラを取りに行かなかった。ただ見ていた。あの時と、似た感覚だった。
* * *
部室の前に着いた。
実結がドアを開けると、佳奈がライトボックスの前に座っていた。坂上が黒板に何か書いていた。
「相沢先輩」と佳奈が言った。立ち上がりもせず、でも声は明るかった。
「佳奈、元気か」と相沢は言った。
「生徒会の用?」
「文化祭の展示場所の確認。写真部は例年通り、北棟の廊下でいいか」
「坂上先輩に聞いてください」と佳奈は言った。坂上の方を向いて。「先輩、相沢先輩が来てます」
坂上が振り向いた。
「ああ、相沢か。廊下展示、例年通りでいい。ただ、今年は縦の展示に挑戦したいから、少し場所を広めに確保してほしい」
「わかった。後で正式な書類送ります」
相沢は実結を見た。
「写真部、入ったんですね」
「はい」
「秋の文化祭、楽しみにしてます」と相沢は言った。それだけ告げた。
踵を返して、廊下へ出た。
* * *
部室に残って、実結はカメラを手に取った。
佳奈が「相沢先輩と話したの?」と聞いてきた。
「廊下で会って、一緒に来た」
「どうだった?」
「どう、って?」と実結は言った。
「なんか変な人でしょ、相沢先輩」と佳奈は言った。「面白い変な人だけど」
「変、というか」と実結は言った。少し考えて。「落ち着いてる人だと思った」
「そう」と佳奈は言った。「あの人、急かさないから」
急かさない。
その言葉が、健三の評価と重なった。健三も、急かさない人だった。
実結はOM-40のファインダーを覗いた。
部室が、四角く切り取られた。
佳奈がライトボックスに向かっている後ろ姿。壁の写真。北側の窓から差し込む、五月の午後の光。
シャッターを切ろうとして、思い留まった。
今は撮らなくていい、と思った。
ただ、見ていた。
フレームの外に出して、部室全体を見た。
こういう時間があることが、実結には少し不思議だった。三月の終わりに透明なまま屋上のベンチに座っていた実結が、今ここにいる。
自分の輪郭が、少しずつ鮮明になっていく気がした。
現像液の中で、像が浮かび上がってくるように。少しずつ、少しずつ。
* * *
その夜、客間で実結は今日のことを思い返した。
相沢が言った言葉が、頭に残っていた。
ここで見たいものが、まだたくさんある。
東京に行きたくない理由として言った言葉だった。でも実結には、別の意味にも聞こえた。
今いる場所に、まだ見ていないものがある。だから動かない。急がない。ただ、ここで見る。
実結は窓の外を見た。
東札幌の夜が、静かに広がっていた。
まだ見ていないものが、この街にある。
その感覚は、怖くなかった。
むしろ、明日が楽しみな感覚に、少し似ていた。
相沢の言葉は、
実結の心にゆっくり沈んでいきます。
ここで見たいものが、まだたくさんある。
撮らないことで守られる視界。
急がないことで見えてくる輪郭。
その静かな価値観が、
実結の“現像されつつある心”と響き合う。
今日の光を、ただ見ていられたこと。
それが実結にとって、
少しだけ未来を明るくする出来事だった。
次の話では、
その“静かな変化”がさらに深く結ばれていきます。




