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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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23/41

第23話 停止液の、正しい使い方

暗室の緋色の光の中で、

実結は初めて“止めること”の意味を知ります。


現像を進めすぎれば、像は消える。

だからこそ、ちょうどいい瞬間で止める──

五味先生の言葉は、

写真だけでなく、実結自身の“気づき”にも向けられていました。


そしてこの一話で、

実結はついに 「小鳥遊」という苗字の本当の読み に触れます。


像が浮かび上がるように、

胸の奥で何かが静かに動き始める回です。

 木曜日の放課後、実結が暗室で焼き付けをしていると、引き戸が開いた。


 五味先生だった。


 白衣のポケットに両手を入れて、暗室の中を見渡した。実結が一人でいることを確認してから、引き戸を閉めた。緋色の安全灯が、二人の顔を等しく照らした。


「作業中に悪いわね」と五味先生は言った。「少しいい?」

「はい」


 五味先生は現像トレイの前に立って、停止液のトレイを指先で軽く叩いた。


「これ、どんなふうに使ってる?」

「現像液から出した印画紙を入れて、現像を止めます」と実結は答えた。

「それだけ?」


 実結は少し考えた。


「……時間は、だいたい三十秒くらい。あとは、ちゃんと撹拌して」

「合ってる」と五味先生は言った。「でも、なんで止めるか、わかってる?」


 実結は手を止めた。


「現像しすぎると、黒くなりすぎるから」

「それは結果」と五味先生は言った。「なんで止めるか、よ。止めることの意味」


     * * *


 五味先生はトレイの縁に指を当てたまま、しばらく何も言わなかった。


 安全灯の緋色が、停止液の液面に反射して揺れていた。酢酸の刺激臭が、暗室の空気に溶けていた。


「現像液の中では」と五味先生はゆっくり言い始めた。「銀塩が還元されて、像が浮かび上がってくる。でも、そのまま放置したら?」

「......黒くなりすぎる」

「そうじゃなくて」と五味先生は言った。「還元反応は、止めなければずっと続くの。止める液を入れなければ、像は出続けて、最終的に何も見えなくなる。真っ黒になって、消えてしまう」


 実結は印画紙を現像液の中で見ていた。


「だから止めるのよ」と五味先生は続けた。「ちょうどいい瞬間を見極めて、止める。止めることで、その像が定まる。止めなければ、せっかく浮かび上がってきたものが、過剰な反応で消えてしまうから」


 実結は、その言葉を聞きながら、手の中の印画紙を見ていた。

 像が、ちょうどいい濃さになっていた。


 停止液に移した。


     * * *


「先生」と実結は言った。トレイを見ながら。

「うん?」

「少し、聞いてもいいですか」

「どうぞ」


 実結は少し間を置いた。停止液の刺激臭が、鼻の奥に届いていた。この匂いが1998年に来て最初に嗅いだものだと、今でもはっきり覚えていた。


「喫茶小鳥遊の苗字、って」と実結は言った。「小鳥遊、って書いて、たかなし、って読むんですよね」

「そうよ」

「......私、ずっと」と実結は言った。「たかはし、だと思ってて」


 四月の私は、誰の名前もちゃんと聞けていなかった。

 暗室に、沈黙が落ちた。


 ちっ、と。


 五味先生は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 そのあとで、小さな舌打ちが落ちた。


 実結は顔を上げた。


 五味先生は現像トレイの方を見ていた。実結を見ていなかった。でも、その横顔に、何かが浮かんでいた。


「......先生?」


 五味先生は少し間を置いてから、実結を見た。眼鏡の奥の目が、いつもより何かを含んでいた。困っているのとは違う。でも、軽くもない。重さのある目だった。


「気づいてないの、あんただけだよ」と五味先生は言った。


 その言葉は、暗室の緋色よりも静かに沈んだ。

 空気の密度が、暗室の室温ごとわずかに変わった。

 緋色の光が、ほんの少しだけ重く見えた。


 でもかけられた声は、ひどく静かだった。

 責めていなかった。ただ、像を定着させるように、事実だけを置いた。


     * * *


 実結は、しばらく動けなかった。ぐるぐると思考が周り、答えを探す。


 たかなし。


 たかはし。


 音のリズムが、似ていた。ずっと、似ていると思っていた。でも別の苗字だと思っていた。だから疑わなかった。疑う理由が、なかった。


「......やっぱり」と実結は言った。声が、少し震えた。「勘違いしてたんだ、私」


 五味先生は何も言わなかった。

 ただ、黙って現像トレイの前に立っていた。


 実結は、定着液のトレイに印画紙を移した。手が動いた。動いたけれど、頭の中では別のことが起きていた。


 喫茶小鳥遊の、琥珀色の灯り。


 健三の、コーヒーカップを両手で持つ手。


 紀子の、「似合ってる」という一言。


 佳奈の、朝の太陽みたいな笑い方。


 全部が、胸の奥で静かに動いた。


 ゆっくりと。


 像が浮かび上がってくるみたいに。


     * * *


「先生は」と実結は言った。「最初から、知ってたんですか」

「ある程度は」と五味先生は言った。あっさりと。「OM-3と、OM-40と、佳奈という名前。それだけあれば、だいたいわかる」

「なんで言ってくれなかったんですか......」と、でもそれは責めてはいない言い方。


 五味先生は少し間を置いた。


「言う必要がなかったから」と五味先生は言った。「あなたが自分で気づくことの方が、大事だったから」

「でも」と実結は言った。「.......もしかして、健三さんも、知ってましたか」

「さあ」と五味先生は言った。「健三さんのことは、健三さんに聞きなさい」


 その問いかけには答えてくれなかった。代わりに、

「あなたが自分で気づく方が、ずっと強いから」と付け加えてくれた。


 五味先生はもう実結の方を見ていなかった。引き伸ばし機の方へ向いて、何かを確認し始めていた。話が終わった、という背中だった。


 でも、実結には、それでよかった。


 全部を聞く必要は、まだなかった。


 まだ、消化できていなかった。


     * * *


 実結は水洗いを終えた印画紙を、作業灯の下で見た。


 今日焼いたのは、先週の撮影で撮った写真だった。

 線路沿いの枯れ草。

 商店街の夕暮れの壁。

 久がしゃがんで線路を見ている横顔。


 全部、ちゃんと出ていた。見えていた。


 実結は写真を一枚ずつ確認しながら、胸の中で何かが静かに動き続けているのを感じていた。


 止まっていない。


 知ったからといって、すぐに何かが変わるわけではなかった。でも、何かが動き始めていた。現像液の中で像が浮かび上がり始める時のように、ゆっくりと、でも確実に。


 止め時を、まだ誰も決めていなかった。


     * * *


 暗室を出ると、部室には誰もいなかった。


 窓の外に、五月の夕暮れが広がっていた。

 薄紅うすくれないからあかねへ変わっていく空。商店街の灯りが、ひとつずつ点り始めていた。


 実結はOM-40を手に取った。

 ファインダーを覗いた。

 窓の外の夕暮れが、四角く切り取られた。


 光の中に、喫茶小鳥遊の看板が遠くに光って見えた。

 文字が、金茶きんちゃ色に輝いていた。


 小鳥遊。


 たかなし。


 実結は、その文字を、ファインダーの中で、しばらく見ていた。


 シャッターは、切らなかった。

 少なくとも撮らないという選択が、今日は正しいと思えた。


 今日は、ただ見ていた。

 見えるようになったものを、ただ、見ていた。

五味先生の舌打ち。

静かな声で告げられた「気づいてないの、あんただけだよ」。


それは責める言葉ではなく、

実結の“現像”がようやく始まったことを示す合図でした。


喫茶小鳥遊の灯り。

健三の手。

紀子の言葉。

佳奈の笑い方。

全部が、胸の奥でゆっくりと結びついていく。


止めなければ、像は消える。

でも今はまだ、止め時ではない。


実結は今日、

“見えるようになったもの”をただ見つめることを選びます。


次の話では、

その像がさらに深く、静かに輪郭を持ち始めます。

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