第24話 フィルムが終わる日
二本目のフィルムが終わる朝。
実結は、ただカウンターの「36」を見つめます。
この節は、
“撮ってきたものを見返す”という行為が、
実結自身の心の現像と重なる回です。
光、距離、間。
撮ったものと、撮らなかったもの。
そして、扉の向こうにある“まだ見えないもの”。
第二章で積み重ねてきた視界が、
静かに輪郭を持ち始めます。
土曜日の朝、実結はOM-40を手に取って、フィルムカウンターを確認した。
「36」だった。
止まっていた。
OM-40のカウンターは正常に動く。だから36で止まっているのは、フィルムが終わったということだった。最後まで撮り切った、ということだった。
実結はカウンターを見ながら、少しこれまでを振り返っていた。
これが二本目のフィルムだった。一本目は四月に現像した。二本目は五月の初めに入れて、今日まで撮ってきた。
五月の中旬で、一本のフィルムが終わった。
* * *
暗室に入った。
引き戸を閉めた。
緋色の世界が戻ってきた。
停止液の匂いが、鼻の奥に届いた。
今日は佳奈も友里子も来ていなかった。部室には実結だけがいた。
フィルムを現像タンクに装填した。暗袋の中で手探りで進める作業を、実結は今では迷わずできた。四月に一人で現像した時より、ずっと手が慣れていた。
現像液を注いだ。タイマーをセットした。
攪拌を始めながら、実結はこの二週間を思い返した。
停止液の話を聞いた日から、二週間が経っていた。
たかなし、ということを知ってから、二週間。
その間、実結は何も変えなかった。健三には何も聞かなかった。佳奈には何も言わなかった。紀子にも。ただ、毎朝エプロンをして、窓を拭いて、コーヒーを出して、部活に行って、帰ってきた。
変えなかったのではなく、変えられなかったのかもしれなかった。
知ったことで、何かが動き始めていた。でもどこへ動くのか、まだわからなかった。
* * *
現像が終わった。水洗いをして、フィルムを干した。
乾く間、実結は部室の椅子に座って、窓の外を見た。
五月の空が、青かった。雲がなかった。白群色ではなく、もう少し深みのある青だった。六月に近づいていく青。
フィルムが乾いた。
ライトボックスに透かして見た。
コマが並んでいた。
最初のコマから見た。
瀬川が暗室で録音していた日。ICレコーダーとマイクを緋色の光の中に向けていた。実結は声をかけずに撮っていた。
次は化学の授業の日。廊下の窓から差し込む光を撮っていた。人も建物もなく、光の軌跡だけが写っていた。
公園の撮影の日。久がしゃがんでいる横顔。池の縁の石。佳奈と有栖の後ろ姿、二人の間の空間。
部室で全員が揃った日。坂上と河合がプリントを並べている後ろ姿。答えてから次を言うまでの間、というものを写真で撮ろうとしていた。うまく撮れていなかった。でも、撮ろうとしたことは確かだった。
渡り廊下で相沢と並んで歩いた日。光の軌跡を撮っていた。相沢は撮っていなかった。
そして、五味先生に話を聞いた日。
暗室を出て、夕暮れの部室で窓の外を見た。喫茶小鳥遊の看板を、ファインダーに入れたけれど、シャッターは切らなかった。だから、その日のコマは一枚もなかった。
* * *
実結はコマを一つひとつ確かめながら、引き伸ばし機にセットした。
最初に焼くのは、公園の日の佳奈と有栖の後ろ姿にした。
ネガをキャリアに入れた。ピントを合わせた。
像が投影された。
二人の後ろ姿が、台の上に現れた。
池の方を向いている二人。佳奈の肩と、有栖の肩。二人の間の距離。光の中に立っている輪郭。
実結は露光時間を設定した。
スイッチを入れた。
光が、印画紙に降り注いだ。
タイマーが切れた。
現像液に沈めた。
待った。
像が浮かんできた。
二人の後ろ姿が、ゆっくりと定まっていった。
止め時だと思った瞬間に、停止液に移した。
作業灯の下で確認した。
二人の間の距離が、ちゃんと出ていた。光の中の輪郭が、鮮明だった。
以前、五味先生が焼いて見せてくれた写真を思い出した。
廊下を歩く二人の後ろ姿。
似ているということは、あの時と同じものを、自分も見ていたのだと思った。
五味先生が見ていた像と、自分の中の像が、同じ光の中で結ばれたように思えた。
* * *
次に焼いたのは、瀬川が録音していた日の写真だった。
暗室の中に人がいる。ICレコーダーを持った人間が、安全灯の緋色の光の中に立っている。顔は半分しか見えない。でも、録音に集中している姿勢が、写真の中に満ちていた。
「消える音を残している人の姿を残した」
実結は、自分がそういうものを撮っていたのだと、焼き上がった写真を見て気づいた。消えていくものを撮って記録として定着させている人間を、実結は撮っていた。
* * *
全部で八枚焼いた。
作業灯の下に並べた。
二本目のフィルムの、選んだ八枚が、並んだ。
実結は椅子に座って、それを見た。
全部、自分が撮りたいと思って撮ったものだった。
でも、一枚だけ、特別なコマがあった。
焼いていないコマだった。
フィルムの最後から二枚目。
最後のコマが「36」で終わる一つ前のコマ。
ライトボックスに透かしてみると、暗室の扉が写っていた。
部室の暗室の引き戸。緋色の安全灯の光が、扉の隙間から漏れている。
いつ撮ったか、すぐに思い出した。
五味先生に話を聞いた日。暗室を出た後、部室に一人でいた時。シャッターを切らないと思っていたのに、気づいたら切っていた。
扉の向こうに、停止液の匂いがある。
その扉を、実結は撮っていた。
焼こうと思った。
* * *
引き伸ばし機にセットした。ピントを合わせた。
扉の像が、台の上に現れた。
隙間から漏れる光が、細く斜めに走っていた。
露光した。現像液に沈めた。
像が浮かんできた。
扉が現れた。緋色の光の細い筋が、暗い背景の中に走っていた。
止め時を、待った。
今だと思った。
停止液に移した。
作業灯の下で見た。
暗い中に、光の筋だけがあった。
扉の向こうに、何かがある。でも見えない。光だけが漏れてくる。
知っているけれど、まだわからないことがある。
実結は、この写真がそういうものだと思った。
* * *
部室の扉が開いた。
佳奈が入ってきた。
OM-4Tiを首に下げて、外を歩き回ってきた顔をしていた。頬が少し赤かった。
「何してたの」と佳奈は言った。
「フィルムが終わったから、現像して焼いてた」
「見せて」
実結は八枚と、扉の写真を渡した。
佳奈は受け取って、一枚ずつ作業灯の下で見た。
久の横顔の写真で少し止まった。
「これ、野村じゃん」
「うん」
「野村って、こういう顔するんだ」と佳奈は言った。「見たことなかった」
「有栖ちゃんを見てる時の顔だから」
佳奈は実結を見た。少し間を置いた。
「気づいてたんだ」と佳奈は言った。責めているのではなかった。ただ、確認していた。
「うん」
「野村には言わないの?」
「言わない」と実結は言った。「久くんが自分で動く時まで」
佳奈は頷いた。それ以上聞かなかった。
扉の写真を見た。
「これは何?」
「暗室の扉」
「なんで扉を撮ったの?」
実結は少し考えた。
「向こうに何があるか、知ってるけど、まだわからないことがあるから」
佳奈は扉の写真を、もう一度見た。
「いい写真だよ」と佳奈は言った。
「そう?」
「扉の写真なのに、開きたくなる」
実結はその言葉を受け取った。
開きたくなる。
自分でそこまで言葉にできていなかったものを、佳奈はひとことで言った。
* * *
夕方、実結は一人で屋上に上がった。
五月の夕暮れが、東札幌の街を照らしていた。
OM-40を手に持った。フィルムは入っていなかった。パトローネ室が空のカメラだった。
でも、それがわかっている上で、ファインダーを覗いた。
喫茶小鳥遊の看板が、フレームの中に入ってきた。
「小鳥遊」
その文字が、夕光の中にあった。
実結は、ファインダーを覗いたまま、しばらくそこにいた。
健三さんに、聞く日が来ると思った。
でも今日ではない。
今日は、ただここから見ていた。
フィルムのないカメラで、フレームに入れて、見ていた。
私の止め時は、まだ来ていなかった。
焼き上がった八枚の写真。
そして、最後に残った“扉”のコマ。
実結は、
知っているけれど、まだわからないものを
初めて自分の手で見つめます。
佳奈の「開きたくなる」という一言は、
実結の無意識に沈んでいた“動き始める気配”を
そっと照らす光でした。
夕暮れの屋上で、
フィルムのないカメラを構えながら、
実結はようやく気づきます。
止め時は、まだ来ていない。
でも、確かに近づいている。




