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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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24/41

第24話 フィルムが終わる日

二本目のフィルムが終わる朝。

実結は、ただカウンターの「36」を見つめます。


この節は、

“撮ってきたものを見返す”という行為が、

実結自身の心の現像と重なる回です。


光、距離、間。

撮ったものと、撮らなかったもの。

そして、扉の向こうにある“まだ見えないもの”。


第二章で積み重ねてきた視界が、

静かに輪郭を持ち始めます。

 土曜日の朝、実結はOM-40を手に取って、フィルムカウンターを確認した。


「36」だった。


 止まっていた。


 OM-40のカウンターは正常に動く。だから36で止まっているのは、フィルムが終わったということだった。最後まで撮り切った、ということだった。


 実結はカウンターを見ながら、少しこれまでを振り返っていた。


 これが二本目のフィルムだった。一本目は四月に現像した。二本目は五月の初めに入れて、今日まで撮ってきた。


 五月の中旬で、一本のフィルムが終わった。


     * * *


 暗室に入った。


 引き戸を閉めた。

 緋色の世界が戻ってきた。

 停止液の匂いが、鼻の奥に届いた。


 今日は佳奈も友里子も来ていなかった。部室には実結だけがいた。


 フィルムを現像タンクに装填した。暗袋の中で手探りで進める作業を、実結は今では迷わずできた。四月に一人で現像した時より、ずっと手が慣れていた。


 現像液を注いだ。タイマーをセットした。


 攪拌を始めながら、実結はこの二週間を思い返した。

 停止液の話を聞いた日から、二週間が経っていた。


 たかなし、ということを知ってから、二週間。


 その間、実結は何も変えなかった。健三には何も聞かなかった。佳奈には何も言わなかった。紀子にも。ただ、毎朝エプロンをして、窓を拭いて、コーヒーを出して、部活に行って、帰ってきた。


 変えなかったのではなく、変えられなかったのかもしれなかった。


 知ったことで、何かが動き始めていた。でもどこへ動くのか、まだわからなかった。


     * * *


 現像が終わった。水洗いをして、フィルムを干した。

 乾く間、実結は部室の椅子に座って、窓の外を見た。


 五月の空が、青かった。雲がなかった。白群びゃくぐん色ではなく、もう少し深みのある青だった。六月に近づいていく青。


 フィルムが乾いた。

 ライトボックスに透かして見た。


 コマが並んでいた。

 最初のコマから見た。


 瀬川が暗室で録音していた日。ICレコーダーとマイクを緋色の光の中に向けていた。実結は声をかけずに撮っていた。


 次は化学の授業の日。廊下の窓から差し込む光を撮っていた。人も建物もなく、光の軌跡だけが写っていた。


 公園の撮影の日。久がしゃがんでいる横顔。池の縁の石。佳奈と有栖の後ろ姿、二人の間の空間。


 部室で全員が揃った日。坂上と河合がプリントを並べている後ろ姿。答えてから次を言うまでの間、というものを写真で撮ろうとしていた。うまく撮れていなかった。でも、撮ろうとしたことは確かだった。


 渡り廊下で相沢と並んで歩いた日。光の軌跡を撮っていた。相沢は撮っていなかった。


 そして、五味先生に話を聞いた日。


 暗室を出て、夕暮れの部室で窓の外を見た。喫茶小鳥遊の看板を、ファインダーに入れたけれど、シャッターは切らなかった。だから、その日のコマは一枚もなかった。


     * * *


 実結はコマを一つひとつ確かめながら、引き伸ばし機にセットした。


 最初に焼くのは、公園の日の佳奈と有栖の後ろ姿にした。

 ネガをキャリアに入れた。ピントを合わせた。


 像が投影された。


 二人の後ろ姿が、台の上に現れた。

 池の方を向いている二人。佳奈の肩と、有栖の肩。二人の間の距離。光の中に立っている輪郭。


 実結は露光時間を設定した。

 スイッチを入れた。


 光が、印画紙に降り注いだ。

 タイマーが切れた。


 現像液に沈めた。

 待った。


 像が浮かんできた。

 二人の後ろ姿が、ゆっくりと定まっていった。


 止め時だと思った瞬間に、停止液に移した。

 作業灯の下で確認した。


 二人の間の距離が、ちゃんと出ていた。光の中の輪郭が、鮮明だった。


 以前、五味先生が焼いて見せてくれた写真を思い出した。

 廊下を歩く二人の後ろ姿。


 似ているということは、あの時と同じものを、自分も見ていたのだと思った。

 五味先生が見ていた像と、自分の中の像が、同じ光の中で結ばれたように思えた。


     * * *


 次に焼いたのは、瀬川が録音していた日の写真だった。


 暗室の中に人がいる。ICレコーダーを持った人間が、安全灯の緋色の光の中に立っている。顔は半分しか見えない。でも、録音に集中している姿勢が、写真の中に満ちていた。


「消える音を残している人の姿を残した」


 実結は、自分がそういうものを撮っていたのだと、焼き上がった写真を見て気づいた。消えていくものを撮って記録として定着させている人間を、実結は撮っていた。


     * * *


 全部で八枚焼いた。

 作業灯の下に並べた。


 二本目のフィルムの、選んだ八枚が、並んだ。

 実結は椅子に座って、それを見た。


 全部、自分が撮りたいと思って撮ったものだった。


 でも、一枚だけ、特別なコマがあった。

 焼いていないコマだった。

 フィルムの最後から二枚目。

 最後のコマが「36」で終わる一つ前のコマ。


 ライトボックスに透かしてみると、暗室の扉が写っていた。

 部室の暗室の引き戸。緋色の安全灯の光が、扉の隙間から漏れている。


 いつ撮ったか、すぐに思い出した。


 五味先生に話を聞いた日。暗室を出た後、部室に一人でいた時。シャッターを切らないと思っていたのに、気づいたら切っていた。


 扉の向こうに、停止液の匂いがある。


 その扉を、実結は撮っていた。


 焼こうと思った。


     * * *


 引き伸ばし機にセットした。ピントを合わせた。


 扉の像が、台の上に現れた。

 隙間から漏れる光が、細く斜めに走っていた。


 露光した。現像液に沈めた。

 像が浮かんできた。

 扉が現れた。緋色の光の細い筋が、暗い背景の中に走っていた。


 止め時を、待った。


 今だと思った。


 停止液に移した。

 作業灯の下で見た。

 暗い中に、光の筋だけがあった。

 扉の向こうに、何かがある。でも見えない。光だけが漏れてくる。


 知っているけれど、まだわからないことがある。


 実結は、この写真がそういうものだと思った。


     * * *


 部室の扉が開いた。


 佳奈が入ってきた。

 OM-4Tiを首に下げて、外を歩き回ってきた顔をしていた。頬が少し赤かった。


「何してたの」と佳奈は言った。

「フィルムが終わったから、現像して焼いてた」

「見せて」


 実結は八枚と、扉の写真を渡した。

 佳奈は受け取って、一枚ずつ作業灯の下で見た。


 久の横顔の写真で少し止まった。


「これ、野村じゃん」

「うん」

「野村って、こういう顔するんだ」と佳奈は言った。「見たことなかった」

「有栖ちゃんを見てる時の顔だから」


 佳奈は実結を見た。少し間を置いた。


「気づいてたんだ」と佳奈は言った。責めているのではなかった。ただ、確認していた。

「うん」

「野村には言わないの?」

「言わない」と実結は言った。「久くんが自分で動く時まで」


 佳奈は頷いた。それ以上聞かなかった。


 扉の写真を見た。


「これは何?」

「暗室の扉」

「なんで扉を撮ったの?」


 実結は少し考えた。


「向こうに何があるか、知ってるけど、まだわからないことがあるから」


 佳奈は扉の写真を、もう一度見た。


「いい写真だよ」と佳奈は言った。

「そう?」

「扉の写真なのに、開きたくなる」


 実結はその言葉を受け取った。


 開きたくなる。


 自分でそこまで言葉にできていなかったものを、佳奈はひとことで言った。


     * * *


 夕方、実結は一人で屋上に上がった。

 五月の夕暮れが、東札幌の街を照らしていた。


 OM-40を手に持った。フィルムは入っていなかった。パトローネ室が空のカメラだった。

 でも、それがわかっている上で、ファインダーを覗いた。


 喫茶小鳥遊の看板が、フレームの中に入ってきた。


「小鳥遊」


 その文字が、夕光の中にあった。

 実結は、ファインダーを覗いたまま、しばらくそこにいた。


 健三さんに、聞く日が来ると思った。


 でも今日ではない。

 今日は、ただここから見ていた。


 フィルムのないカメラで、フレームに入れて、見ていた。


 私の止め時は、まだ来ていなかった。

焼き上がった八枚の写真。

そして、最後に残った“扉”のコマ。


実結は、

知っているけれど、まだわからないものを

初めて自分の手で見つめます。


佳奈の「開きたくなる」という一言は、

実結の無意識に沈んでいた“動き始める気配”を

そっと照らす光でした。


夕暮れの屋上で、

フィルムのないカメラを構えながら、

実結はようやく気づきます。


止め時は、まだ来ていない。

でも、確かに近づいている。

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