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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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25/41

第25話 五月の終わり、窓の外

五月の終わり。

フィルムが終わり、季節もひとつ終わろうとしている夜。


この節は、

実結が“まだ撮らないまま見る”という選択を初めて自覚する回です。


健三の言葉、

夜気の冷たさ、

スマートフォンの32パーセント、

そして、まだ取り出さないOM-40。


第二章で積み重ねてきた“見えるようになる感覚”が、

静かに、確かに、実結の中で結ばれていきます。

 五月の終わりの夜は、空が妙に澄んでいた。


 フィルムが終わったのは、三日前のことだった。現像して、焼いて、並べた。二本目のネガは三十六枚で止まった。正確に。何も詰まらず、正確に止まったフィルムカウンターを、実結はしばらく見ていた。


 夕食が終わって紀子が片付けを始めた頃、実結は屋上への階段を上っていた。気づいたら体が動いていた、という感じだった。OM-40はエバーレディケースに入れたまま肩にかけている。取り出すつもりは、まだ、なかった。


 扉を押すと、健三がいた。


 プレハブ小屋の軒下に折り畳み椅子を出して、OM-1Nを膝の上に置いている。空の方を向いていた。こちらを見て、また視線を戻した。


「お邪魔でしたか」

「いや」


 それだけで、二人は黙った。


 東札幌の夜は、静かではなかった。遠くで車が走る音がする。どこかで換気扇が回っていた。街灯の白鼠色の光が屋上の縁を縁取り、喫茶小鳥遊の錆朱色のレンガを下から照らしていた。


 実結は健三の隣に立って、同じ方を向いた。南の空に低く沈む橙色の固まりがある。ビルのどれかだろう。距離がわからなかった。1998年の東札幌の地理は、まだ体に馴染んでいない。


 スマートフォンを取り出したのは、ほとんど無意識だった。画面が白く光る。夜の中でひとりだけ浮いたような白さだった。


 32パーセント。


 充電できない。でも、減らない。三月から、ずっと変わっていない数字だった。

 実結はその表示を、今夜は少し違う目で見た。怖い、とは思わなかった。怖くないと気づいた瞬間、胸の奥のどこかが、静かにほどけた。うまく名前のつかないものだった。


 画面を消した。夜が戻ってきた。


「写真、撮らないのか」


 健三の声は静かだった。責めているわけではない。ただ確かめた、という声だった。


「今日は、いいかなと思って」

「そうか」


 健三さんは頷いて、またOM-1Nに目を落とした。ファインダーを覗く様子もない。膝の上に、ただ置いている。


 光が来るまでただ待つのが、健三の撮り方だと佳奈さんから聞いていた。どんな光を待っているのかは、聞いていなかった。


 風が来て、夜の空気が動いた。土の匂いと、コーヒーの名残りと、もうすぐ消えてしまいそうな何かの匂いがした。五月の終わりが、匂いの向こうで静かに色を変えていく気がした。


「霧の中、歩いたことがあるか」


 唐突だったので、実結は少し間を置いた。


「......ないと思います。濃いやつは」

「怖いぞ」と健三さんは言った。「一歩先が見えない。自分の輪郭もぼやける。地面があるのかどうか、わからなくなる」

「それは怖いですね」

「でも......」


 健三は言葉を探すように、夜の橙をしばらく見ていた。


「足を出せば、地面はある。なかったことが、まだない」


 実結は黙っていた。


「ここまで来たのも、そうだろう」


 それが何のことを指しているのか、実結にはわかった。健三の声は何も断定していない。ただ、事実として置いた。見えなくても足を出た。だから、ここにいる。

 その言葉は、すごく自然に、実結の頭の中に沁みこんでいく。


 五月の夜気が首筋に当たった。まだ薄く寒い。六月はもうすぐだ、と実結は思った。北海道の夏はどんな色をしているのだろう、とも思った。


 扉が少し開いて、紀子がほうじ茶を持ってきた。二つのカップを置いて、何も言わずに戻っていった。紀子はいつもそうだった。必要な時に、ちょうど必要なものを置いていく。


 カップを両手で包んだ。陶器の温かさが掌に届く。口に含むと、焦げた香ばしさが喉の奥まで降りてきた。


 佳奈に聞かなかった。五味先生にも聞かなかった。健三さんにも、今夜は聞かない。「たかなし」と「たかはし」が違うことの意味を、誰にも確かめていない。

 けれど暗室の扉を無意識に撮っていたように、実結の中で何かが少しずつ、像を結び始めていた。

 まだ輪郭は定まっていない。でも、確かに浮いている、何か。


 現像液の中の印画紙みたいに。


 手すりに触れた。鉄が冷たかった。


 OM-40がケースの中で重みを持っている。肩にかけたまま、取り出す気にはなれなかった。今夜は、フレームの外で見ていたかった。見るだけの時もある、と健三さんはいつか言っていた。今夜が、そういう夜だった。


 屋上の向こうに、東札幌の夜が広がっている。走る車のライト、誰かの窓の灯り、遠くのビルの橙。全部が遠くて、全部が確かだった。


 健三のOM-1Nが、ほんの小さな音を立てた。

 シャッターを切ったのかもしれなかった。見なかった。


「ありがとうございます」


 実結は言った。その言葉が、夜気の中に静かに落ちていった。健三も聞かなかった。


「寒くなる前に中に入りなさい」


 それだけ言って、また空を見た。


 実結はもう少し、そのまま立っていた。五月が終わる。フィルムが終わったように、五月も終わる。そのあとに六月が来ることを、実結は今夜、初めて怖がっていなかった。


 手すりの鉄の冷たさが、掌に馴染んでいく。


 その確かさが、夜の光のように私の心深くに静かに残った。


     * * *


第二章「現像液の解像度」 了


霧の中でも足を出せば地面はある──

健三の言葉は、

実結がまだ言葉にできない“像の気配”をそっと支えるものでした。


暗室の扉を撮ってしまった日のように、

実結の中では、

まだ輪郭の定まらない何かが、静かに浮かび上がり始めています。


五月が終わる。

フィルムが終わる。

でも、終わりは恐怖ではなく、

次の光へ向かうための“止め時ではない時間”として訪れる。


フィルムのないカメラで、

ただフレームに入れて見るという選択。

その静かな行為こそが、

第二章「現像液の解像度」の最後の一滴になりました。


六月が来ることを、

実結はもう怖がっていない。


第二章、了。

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