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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第6章:8月/夏の感度、上がりすぎる

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第44話 紀子さんの台所

 喫茶小鳥遊の定休日は、月曜と火曜だった。


 月曜の昼過ぎ、実結は台所にいた。


 紀子さんが夕食の下準備をしていた。

 じゃがいもの皮をむいている。

 実結はその隣で、洗い終わった器を食器棚に戻していた。特に頼まれたわけではなかったけれど、洗い終えた器が台所に積んであったので、仕舞っていた。


 それだけのことだったのだが、途中で仕舞う手が止まった。

 ふと、思ったのだ。いつから、こういうことが当たり前になったのだろう。

 器の仕舞う場所を知っている。何がどこにしまわれているかを知っている。

 紀子さんに確認しなくても、迷わず動ける。


 三月に来た時、この台所はまったく知らない場所だった。


 今は、知っている場所だった。


     * * *


「じゃがいも、好きなんだって?」と紀子さんが言った。


「はい。食感がいつも食べていたものと違って、すごく美味しいです」


「北海道のは、粉質が強いの。煮崩れやすいから、煮物には向かないものもあるけど」


「向かないものもあるんですね」


「でも、ポテトサラダには最高」と紀子さんは言った。包丁の動きが止まらなかった。皮をむきながら話す人だった。


 実結も器を棚に戻しながら聞いていた。


 外から見ると、台所で二人が並んで作業している。

 今はそれが日常の光景だった。

 でも実結には、その「日常」が今日は少し重く見えた。

 三月からの時間がぜんぶここに積み重なっているような、静かな重さだった。


     * * *


 窓の向こうに、健三さんがいた。


 店の裏庭の方に椅子を出して、座っていた。

 こちらに背を向けて、遠くの空を見ていた。

 夏の空は高くて、健三さんの視線の先には、何もない。

 でも健三さんは、そこを見上げていた。


 実結はカメラを持っていた。

 カウンターは「32」だった。


 ファインダーを覗こうとして、構えようとカメラを持ち上げたが、結局ファインダーに目を当てずにいた。


 以前、早朝の裏庭で健三さんの背中を見た時とは違う。

 あの時は「意味がわからなかった」からシャッターを切れなかった。

 今日は、意味がわかるから切れなかった。


 健三さんが見ている空は、健三さんのものだった。


 それを窓越しに撮ることが、実結にはできなかった。


 OM-40をそっとケースに戻した。


     * * *


「実結ちゃん」と紀子さんが言った。「あの人、見てたっしょ?」


「何をですか?」


「空を見上げてたっしょ?」


 実結は少し間を置いた。「はい。健三さんは空を見上げてました」


「あの人はよく空を見てるわよ——」と紀子さんは言った。「昔からめ。山にいた頃から、そういう人」


「山が恋しいんでしょうか」


 紀子さんはじゃがいもを鍋に入れた。「どうかしらね」と言った。「恋しいのかもしれないし、もう見るだけでいいのかもしれない。本人に聞いたことがないから」


 聞いたことがない。


 長年一緒にいて、聞いたことがない。それが違和感でなく、当たり前として成立している。そういう関係もある、と実結は思った。聞かなくても、隣にいられる関係。


「紀子さんは、聞きたくなったことはないですか?」


「あるわよ」と紀子さんは言った。「でも聞かなかった。聞いても変わらないから」


「変わらない?」


「あの人があの人のままでいることは変わらないっしょ——」と紀子さんはあっさり言った。「それが好きだからでないかい」


 実結は黙って聞きながら、最後の器を食器棚に戻した。


---


 夕方、健三さんが裏庭から戻ってきた。


 台所を通り過ぎる時に、実結がOM-40を首から下げているのが目に入ったのか、「今日は撮ったのかい?」と尋ねた。


「さっき一枚撮ろうとしたんですが、止めました」と実結は言った。


「そうかい」と健三さんは言った。それだけで、台所を出ていった。


 紀子さんが鍋を火にかけた。じゃがいもが煮え始める音がした。

 実結はしばらく、その音を聞いていた。


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