第44話 紀子さんの台所
喫茶小鳥遊の定休日は、月曜と火曜だった。
月曜の昼過ぎ、実結は台所にいた。
紀子さんが夕食の下準備をしていた。
じゃがいもの皮をむいている。
実結はその隣で、洗い終わった器を食器棚に戻していた。特に頼まれたわけではなかったけれど、洗い終えた器が台所に積んであったので、仕舞っていた。
それだけのことだったのだが、途中で仕舞う手が止まった。
ふと、思ったのだ。いつから、こういうことが当たり前になったのだろう。
器の仕舞う場所を知っている。何がどこにしまわれているかを知っている。
紀子さんに確認しなくても、迷わず動ける。
三月に来た時、この台所はまったく知らない場所だった。
今は、知っている場所だった。
* * *
「じゃがいも、好きなんだって?」と紀子さんが言った。
「はい。食感がいつも食べていたものと違って、すごく美味しいです」
「北海道のは、粉質が強いの。煮崩れやすいから、煮物には向かないものもあるけど」
「向かないものもあるんですね」
「でも、ポテトサラダには最高」と紀子さんは言った。包丁の動きが止まらなかった。皮をむきながら話す人だった。
実結も器を棚に戻しながら聞いていた。
外から見ると、台所で二人が並んで作業している。
今はそれが日常の光景だった。
でも実結には、その「日常」が今日は少し重く見えた。
三月からの時間がぜんぶここに積み重なっているような、静かな重さだった。
* * *
窓の向こうに、健三さんがいた。
店の裏庭の方に椅子を出して、座っていた。
こちらに背を向けて、遠くの空を見ていた。
夏の空は高くて、健三さんの視線の先には、何もない。
でも健三さんは、そこを見上げていた。
実結はカメラを持っていた。
カウンターは「32」だった。
ファインダーを覗こうとして、構えようとカメラを持ち上げたが、結局ファインダーに目を当てずにいた。
以前、早朝の裏庭で健三さんの背中を見た時とは違う。
あの時は「意味がわからなかった」からシャッターを切れなかった。
今日は、意味がわかるから切れなかった。
健三さんが見ている空は、健三さんのものだった。
それを窓越しに撮ることが、実結にはできなかった。
OM-40をそっとケースに戻した。
* * *
「実結ちゃん」と紀子さんが言った。「あの人、見てたっしょ?」
「何をですか?」
「空を見上げてたっしょ?」
実結は少し間を置いた。「はい。健三さんは空を見上げてました」
「あの人はよく空を見てるわよ——」と紀子さんは言った。「昔からめ。山にいた頃から、そういう人」
「山が恋しいんでしょうか」
紀子さんはじゃがいもを鍋に入れた。「どうかしらね」と言った。「恋しいのかもしれないし、もう見るだけでいいのかもしれない。本人に聞いたことがないから」
聞いたことがない。
長年一緒にいて、聞いたことがない。それが違和感でなく、当たり前として成立している。そういう関係もある、と実結は思った。聞かなくても、隣にいられる関係。
「紀子さんは、聞きたくなったことはないですか?」
「あるわよ」と紀子さんは言った。「でも聞かなかった。聞いても変わらないから」
「変わらない?」
「あの人があの人のままでいることは変わらないっしょ——」と紀子さんはあっさり言った。「それが好きだからでないかい」
実結は黙って聞きながら、最後の器を食器棚に戻した。
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夕方、健三さんが裏庭から戻ってきた。
台所を通り過ぎる時に、実結がOM-40を首から下げているのが目に入ったのか、「今日は撮ったのかい?」と尋ねた。
「さっき一枚撮ろうとしたんですが、止めました」と実結は言った。
「そうかい」と健三さんは言った。それだけで、台所を出ていった。
紀子さんが鍋を火にかけた。じゃがいもが煮え始める音がした。
実結はしばらく、その音を聞いていた。




