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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第4章 オーバーとアンダーの境界

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40/41

第40話 揺れの一秒

 八月の二回目の部活は、金曜の午後だった。


 今日も空っぽの学校だった。前回来た時より、テニス部の音もしなかった。部室に向かう廊下に、自分の足音だけが響いた。


 合評は一時間ほどで終わった。


 出品作の最終確認。提出書類の確認。五味先生が「来週提出。当日の集合は七時半」と言った。八月二十五日まで、あと三週間を切っていた。


 解散して、実結は部室の電気を消した。廊下に出て、施錠を確認して、帰ろうとした。


 相沢さんが、廊下の向こうから歩いてきた。


     * * * 


 お互いに気づいて、立ち止まった。

 相沢さんはファイルを持っていた。夏休み中の生徒会の仕事らしかった。


「また来てたんだ」と相沢さんは言った。

「合評でした。今終わったところです」

「地区大会、もうすぐだよね」

「来週、提出です」


 相沢さんが少し考えた。「撮影の依頼、部の方に相談したら」


 実結は少し間を置いた。「部長に、相談したんですか?」


「うん。坂上さんに。快諾してもらった」

「よかったです」

「麻倉さんが来てくれるかも、って言われた」


 実結は相沢さんを見た。相沢さんも実結を見ていた。廊下に夏の光が横から入っていた。午後の光で、影が長かった。


「写真部って、そういう仕事の受け方をするんですね」と実結は言った。「誰が行くかは相談すると思うのに......」


「そうみたいだね」と相沢さんは言った。「でも、麻倉さんに撮ってほしいな、とは思ってる」


 その言い方は、業務の依頼より少しだけ柔らかかった。


 一秒ほど、逡巡してから。

 実結はOM-40のストラップを持ち直した。


「地区大会が終わったら、時間が空くと思います。その頃でいいですか」


「うん、全然」と相沢さんは言った。「急がないから」


 また少し、沈黙があった。長くはなかった。でも短くもなかった。


「地区大会、うまくいくといいね」と相沢さんは言った。

「ありがとうございます」

「写真、見られないのが残念だけど」

「合評会の後で、部に連絡が行くと思います。受賞したら、学校にも掲示されるので」


 言ってから、実結は自分が何を言ったかを確認した。受賞したら、と言った。受賞するかどうかはわからないのに。でも、なぜかそう言っていた。


「楽しみにしてる」と相沢さんは言った。笑った。


 実結も、少しだけ笑った。少しだけだった。


     * * *


 外に出ると、夏の光が全部降っていた。


 帰り道、OM-40をケースから出した。今日も迷わなかった。


 電信柱の影が、アスファルトに長く伸びていた。シャッターを切った。


 ファインダーを下ろした後で、実結は廊下でのやりとりを思い返して、考えていた。


 「麻倉さんに撮ってほしい」と相沢さんは言った。業務的な依頼の文脈で。でも、実結はその言葉の何かを、一秒だけ受け取っていた。


 受け取ってしまった。

 その一瞬が、胸の奥で静かに揺れた。

 それが怖かった。怖い、と気づいた自分が、また怖かった。


 オーバーだ、と実結は思った。一段分、オーバーだ。


 でも、切ったシャッターは戻らない。

 フィルムの中に、もう光が届いていた。


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