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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第4章 オーバーとアンダーの境界

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41/41

第41話 六本目、夏の感度

 翌朝、五本目のフィルムを取り出した。


 OM-40のカメラ底部のレバーを起こして、蓋を開ける。巻き上がったパトローネをつまんで引き出す。手のひらに収まる小さな金属の缶。この中に、五本目の光が入っている。相沢さんの言葉が入っている。引き込み線の錆が金に変わる瞬間が入っている。


 新しいパトローネを開けた。六本目が始まる。


     * * *


 八月の朝は、光が早かった。


 六時前から外が明るい。実結が一階に降りると、厨房にはまだ誰もいなかった。裏庭に出た。コンクリートの目地に朝の光が走っていた。


 カメラを、OM-40を構えた。


 シャッターを切ろうとして、少し止まった。光が強すぎる、と思った。八月の朝の直射光は、フィルムに対してオーバーになりやすい。絞りを一段絞る。もう一度構える。切った。


 カウンターが「2」になった。


 それだけで、何かが変わった気がした。五本目の最後の一枚が昨日だった。六本目の最初の一枚が今だ。フィルムが変わると、世界が少し新しくなる感じがした。同じ裏庭で、同じ光で、でも少し違う。


     * * *


 午前中、実結は一人で街へ出た。


 特に目的はなかった。カメラを持って、歩く。それだけでよかった。


 夏の札幌の商店街は、人の動きが違った。Tシャツ一枚の人、麦わら帽子の人、アイスを食べながら歩く子ども。1998年の夏がここにある、と実結は思った。2030年とは違う種類の夏だった。比べる気はなかった。ただ、違う、と感じた。


 カメラを自然に持ち上げ構えていた。


 アイスを持った子どもが横断歩道を渡り切るところ。振り返らなかった。でも、カメラを構えていた。シャッターを切った。


 体が先に動いた。


 5月に佳奈さんの隣を歩きながら気づいたことが、少しずつ体に馴染んでいた。目と体が同時に動く。そういう撮り方になってきている。


     * * *


 昼前に、商店街の端のベンチに座った。


 OM-40をケースに入れて、カウンターを見た。「14」。六本目の最初の朝から、もう十三枚撮っていた。夏の感度が上がっている、と実結は思った。


 写真的な意味で言えば、高感度のフィルムは光を多く拾う。でも粒子が粗くなる。細かいものが見えなくなる代わりに、大きな光を捉えられる。実結が今使っているのは標準感度のフィルムだったが、撮り手の感度が上がっていた。


 ここ数日、全部が少し大きく届いていた。


 光の色。空気の温度。昨日の廊下の会話。「麻倉さんに撮ってほしい」という声。


 受け取りすぎている、とわかっていた。でも、受け取る前に止められなかった。


 感度は、自分では調整できない。


     * * *


 帰りに、喫茶小鳥遊の前を通ると、佳奈さんが外に出てきた。


「あ、実結。どこ行ってたの」


「少し撮ってきました」


「一人で?」と佳奈さんは言った。「今度は一緒に行こう。来週、沙織と美穂も来るから」


「みんなで、ですか」


「暇なんだって。夏休みだし」と佳奈さんはあっさり言った。「どこ行きたい?」


 実結は少し考えた。「サツエキの方、行ってみたいです」


「いいじゃん」と佳奈さんは笑った。「じゃあ来週ね」


 それだけで決まった。


 実結は店に入りながら、来週のことを考えた。佳奈さん、沙織さん、美穂さんと、サツエキへ。夏休みの、普通の外出。


 普通のことが、少し眩しかった。

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