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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第4章 オーバーとアンダーの境界

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第39話 空っぽの学校、夏

 夏休みに入って最初の部活は、八月の一日だった。


 登校すると、学校が静かだった。廊下に誰もいない。靴箱の半分が空いている。体育館の向こうでテニス部が練習している音だけが、遠く届いていた。


 夏休みの学校は、実結にとって初めての感触だった。2030年から持ち込んだ記憶の中にも、たぶんこういう感触はある。でも、ここの夏休みは、少し違う空気がした。


 部室に入ると、坂上と河合のふたりがすでに来ていた。五味先生の机の前で、地区大会の提出書類を確認していた。


「麻倉、プリントは?」と坂上さんが言った。

「持ってきました」

「最終確認ね。もう一度並べてみて」


 実結は小樽の引き込み線のコマを机に出した。最終的に選んだ一枚。現像してから何度も見ているが、毎回少し違う顔に見える。今日は光の角度が違うから、か。夏の朝の光の中で見ると、錆の色がまた少し変わっていた。


「いいと思う」と河合が感想を言った。「何かが起きる直前みたいで」


「起きた後でもある」と友里子が後から続く。いつの間にか来ていた。「どっちにも読める写真は、強いんじゃない」


 実結はそのプリントを見た。起きる直前。起きた後。どちらとも読める。それは撮った時には考えていなかった。でも、友里子がそう言うなら、そうなのかもしれない。


     * * *


 午前中に全員揃った。有栖が来た時、久が反応してすぐに振り返った。


 久が、有栖に何か言っていた。実結には聞こえなかった。有栖が頷いていた。それだけだった。でも、二人の間の空気が、以前より少し短くなっていた。距離ではなく、間。言葉と言葉の間。


 先月渡したメモの中身は、まだ知らない。知らなくていい、と思っていた。


     * * *


 昼過ぎに、実結は一人で廊下を歩いた。


 部室から給湯室への道。普段は人が行き交う廊下が、ほとんど誰もいない。足音が響く。窓から入る光が床に四角く落ちていた。夏休みの学校の廊下は、光の通り道みたいだった。


 生徒会室の前を通った。


 扉が閉まっていた。当たり前だった。夏休みだから。でも実結は少しだけ速度が落ちた。扉を見た。「生徒会室」と書かれた紙が貼ってある。それだけだった。


 速度を戻した。


 何でもなかった。扉が閉まっているだけだ。当たり前のことだ。当たり前のことを確認してしまった、というだけのことだった。


     * * *


 午後に、実結は暗室で出品用プリントの最終調整をした。


 引き伸ばし機の前で、一枚だけを焼いた。試し焼きを一枚、本焼きを三枚。三枚の中から、一枚を選ぶ。


 現像液のトレイに浸して、プリントが浮かんでくるのを待った。


 光と影のバランスが、わずかに違う三枚が並んだ。コンマ一段の違いだった。三枚を見比べて、真ん中を選んだ。オーバーでも、アンダーでもない。光の強さを保ちながら、錆の色を殺さない一枚。


 これが適正、と実結は思った。


 撮った時にわかっていたわけではなかった。焼いてみて、初めてわかった。体で覚えていく、というのはこういうことかもしれなかった。


     * * *


 帰り道、OM-40を取り出した。


 夏休みの午後の光は、長かった。まだ四時前なのに、光の角度が傾き始めていた。学校の正門から出て、少し歩いたところの角に、アジサイが咲いていた。梅雨が終わっても残っているアジサイだった。少し色が褪せていた。


 シャッターを切った。


 今日は躊躇しなかった。


 カウンターが進んだ。夏休みが始まっていた。フィルムはまだ続く。

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