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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第4章 オーバーとアンダーの境界

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第38話 一学期が終わる日

 終業式の朝は、校舎が違う音をしていた。


 掃除道具を片付ける音、ロッカーを閉める音、廊下を走る音。夏休み前の最後の日の騒がしさが、どの廊下にも充満していた。実結は自分の席で通知表を受け取って、特に何も言われなかった。転入生だから仕方ない、という雰囲気だった。


 カメラはカバンの中にあった。今日は部活もなかった。でも、持ってきていた。


     * * *


 昼過ぎに体育館での全体行事が終わって、クラスに戻る廊下で相沢さんと遭遇した。


 今日で何度目だろう、と実結は思った。廊下で会う回数が、七月に入ってから増えていた。生徒会室と写真部の部室の位置関係のせいかもしれなかった。そうに違いなかった。


「終業式」と相沢さんは言った。挨拶でも確認でもない。ただそういう日だ、という声だった。


「はい」

「夏休み、どうするの」

「地区大会の準備で、何度か学校に来ます」

「あ、そうか」と相沢さんは言った。「地区大会、八月だっけ」

「二十五日からです」

「そっか」


 廊下を人が流れていく。喋っている声、笑っている声。実結と相沢さんは少し端に寄っていた。相沢さんが壁に軽く背中を預けて、実結を見た。


「出品作、決まったんだよね」

「はい。先週決めました」

「どんなの?」

「引き込み線の写真です」

「引き込み線」と相沢さんは繰り返した。少し考えた。「鉄道の?」

「小樽の、もう使われていない引き込み線です。錆びたレールが光を受けた瞬間を撮りました」


 相沢さんがそれを聞いていた。実結の言葉を、ゆっくり受け取っていた。相沢さんはいつもそうだった。こちらが話すと、受け取ってから返す。


「見てみたいな」と相沢さんは言った。


 実結は一秒、止まった。


「地区大会、入れるかな」

「一般の方は入れないと思いますが......」

「そっか」と相沢さんは言った。残念そうでもなかった。ただ「そっか」だった。


 廊下の人の流れが少し薄くなっていた。実結は自分のクラスへ戻らなければいけない方向を確認した。


「じゃあ」と言いかけた。


「夏休み前に、一枚撮ってもらえる?」


 実結は返事を躊躇った。


「写真部に頼むのって、変かな」と相沢さんは少し笑いながら言った。「文化祭の生徒会のやつとか、いつも先輩に頼んでたんだけど、今年の担当が変わって。ポスター用の写真が必要なんだよね、生徒会室か、外か。何枚かあればいいんだけど」


 実結は一秒、また一秒。

 ポスター用の写真。業務的な依頼。それだけのことだった。


「部の方に相談した方がいいと思います。坂上さんか五味先生に」と実結は言った。「私一人が決められることじゃないので」

「そうだよね、ごめん。そうする」

「いえ」

 「じゃあ、またね」と相沢さんは言った。また廊下の人の流れに戻っていった。


     * * *


 帰りのホームルームが終わって、実結はカバンを持って外に出た。


 玄関を出ると、夏の光が全部降っていた。七月の終わりの光は、均一ではなかった。真上から来る光が、何もかもを真下に押さえつけていた。影が短い。輪郭が硬い。


 OM-40を取り出した。


 何かを撮ろうとして、やめた。


 今撮りたいものが、ない、と気づいた。いや、ある。ある、と思った。でも、ファインダーを向けていいかどうか、わからなかった。


 夏休みに入ったら、学校では会えない。


 その考えが来た時に、実結は少し驚いた。驚いた自分に、また驚いた。何を驚いているのかは、言いたくなかった。


 OM-40をケースに戻した。


 七月の光が、肩の上に重く降っていた。

 アンダーにしようとして、できなかった。

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