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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第4章 オーバーとアンダーの境界

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第37話 ボールペンと、選ぶこと

 金曜の部活は、プリントを持ち寄る日になっていた。


 七月に入ってから、五味先生が「地区大会まで、毎週金曜は合評の時間にする」と言った。一人ずつ、撮ってきたものを机に広げて、部員全員で見る。コメントをしてもいいし、しなくてもいい。ただ、並べる。


 実結は小樽で撮った分から三枚を選んで持ってきた。光の割れ目のコマ。引き込み線の錆。漁船が離れていく波紋。


 坂上が、実結のプリントを少し長く見た。「波紋、いいな。何かが行った後、みたいで」


「船が出ていくところを撮りました」


「それが写ってないのがいい」と坂上は言った。


 佳奈は黙って三枚を見て、「引き込み線が好き」とだけ言った。


 友里子は何も言わなかった。ただ、引き込み線のコマを少し手に取って、また戻した。


     * * *


 五味先生は全員分のプリントを一通り見てから、自分の椅子を引いた。


 机の引き出しからボールペンを出した。黒一本だけではなかった。青、茶、灰、もう一本何かの色——合わせて五本か六本を、まとめて手に持った。


 有栖が「先生、それ何をするんですか」と聞いた。


「見てなさい」


 五味先生が佳奈のプリントを一枚取った。港の石畳を撮った一枚だった。五味先生はそのプリントを光に透かすようにして、しばらく眺めた。


「ここ」と言って、机の上に置いた。


 実結には、最初わからなかった。どこを指しているのか。でも目を凝らすと、石畳の中ほどに、細い白い線が走っていた。フィルムに傷がついたのだ、と実結は思った。プリントに焼いたとき、傷の部分だけが白く抜けてしまっている。


 五味先生が茶色のボールペンを持った。


 ペン先を印画紙に当てた。線を引くのではなかった。点を打つように、ごく小さな点を、白い傷の上に置いていった。一点、また一点。力を入れていなかった。息を殺すような細かさだった。


 茶色を置いて、今度は青を持った。茶と青を交互に、周囲の石畳の色に合わせながら点描を重ねていく。白い線の上に、少しずつ階調が乗っていった。


 実結は息を止めていた。


 白い傷が、消えていく。


 消えて、なくなる。あったはずの傷が、なかったことになっていく。でも、色を加えているのに、後から手を入れたとはわからなかった。ただ、石畳の灰色が、そこにある。


 一分ほどで、五味先生はボールペンを置いた。


「どう?」と有栖に言った。


 有栖はプリントを手に取って、白い線があったあたりをじっと見た。「……どこだったか、わからなくなりました」


「それでいい」と五味先生は言った。「補正は、目立たないようにするのよ」


 佳奈が「五味ちゃん、それうちのプリントだけど」と言った。


「返すわよ」と五味先生はあっさり言った。「傷があったから直した。あなたの写真の方が好きだから選んだ」


 佳奈が少し複雑な顔をして、プリントを受け取った。白い線があったあたりを、自分でも確かめるように見ていた。


     * * *


 帰り際に、実結は五味先生に声をかけた。


「出品作、決めました」


「どれにしたの?」


「引き込み線の錆のコマです」


 五味先生は少し間を置いた。「理由は」


「消えていくものが、消える前に光った瞬間だから」


 また間があった。五味先生はOM-2Nを机の端から取って、ストラップを首にかけた。今日は撮りに行く前の目をしていた。


「それでいい」と言った。「覚えておきなさい、その理由を。合評会で言葉にできるかどうかが、大事だから」


「写真は見てわかるものだけど、なぜ撮ったかを話せるかどうかは別の話よ」


 実結は「はい」と答えた。言葉にする、ということが、今の自分にできるかどうかはわからなかった。でも、理由はある。それは確かだった。


     * * *


 部室を出ると、廊下はもう夕方の橙だった。


 坂上と河合がすでに先を歩いていた。佳奈は補正されたプリントを封筒に入れながら、ゆっくり後ろから来ていた。有栖と久は、ドアのところで何か話していた。久が有栖に、小さなメモのようなものを渡していた。有栖が受け取って、また久を見た。


 実結はそれを見ないようにした。見るのは、まだ早い気がした。


 階段を降りながら、実結は「消えていくものが、消える前に光った瞬間」という自分の言葉を繰り返した。なぜその写真を選んだのか、今日初めて言葉にした。言葉にしてみると、それは写真のことだけではなかった。


 何のことでもある、と思った。何のことかは、言わなかった。


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