第36話 七月の、適正露出
七月が来た。
怖くなかった、というのは本当だった。朝起きて、カーテンを開けると、六月より少し白い光が入ってくる。夏になっている、という感じがした。びっくりするほど自然に、七月になっていた。
五本目のフィルムを装填したのは、七月の最初の月曜日だった。カウンターが「1」に戻る。また始まる。実結はOM-40をエバーレディケースに収めて、ストラップを肩にかけた。
* * *
水曜の放課後、五味先生が部室で小樽で撮ったプリントを並べていた。
全員分ではない。実結の分と、佳奈さんの分と、久さんの分が、机の上に横に並んでいた。五味先生はプリントを一枚ずつ、ゆっくり見ていた。OM-2Nが机の端に置いてある。今日は撮る前、という目をしていた。
実結は入口に立っていた。部室に来たら五味先生がいた、という状況だった。
「入りなさい」と五味先生は言った。こちらを向かなかった。
実結は入って、五味先生の隣に立った。
プリントが横に並んでいる。石畳の水たまりに映る空。引き込み線の錆色が金に変わる直前。漁船が離れていく水面の波紋。
「このコマ」と五味先生が実結のプリントの一枚を指した。光の割れ目のコマだった。「オーバー」
「はい。佳奈さんに聞いたら、光だからいいって」
「佳奈がそう言ったなら、そういう写真なんでしょうね」と五味先生は言った。否定でも肯定でもない。「でも自分でわかって撮ったのか、わからなかったけど撮れたのか、どっちか」
実結は考えた。「わからなかったけど撮れた、だと思います」
「正直でよろしい」と五味先生は言った。少し笑った気がした。「オーバーとアンダーの境界は、一段か半段だから。最初のうちはわからなくて当然。でも、どっちに外れたかを後で読めるようになれば、次から体が先に動く」
「体が先に動く、というと......?」
「体で覚える、ということ。頭で計算して出す露出と、感覚で出す露出は、見た目が違うのよ」
実結はプリントの光の柱を見た。オーバーで飛んだ空の白。でも、だからこそ光が光に見える。
「地区大会に出すとしたら、このコマですか」
「どれを出したいか、あなたが決めなさい」と五味先生は言った。「私が決める写真展じゃないから」
* * *
部活が終わった後、廊下を歩いていると、相沢が向かいから歩いて来た。
生徒会の仕事で職員室に向かっているところらしかった。ファイルを脇に抱えている。実結を見て、少し速度が落ちた。
「写真部、今日も?」
「はい。プリントの確認で」
「地区大会、出るんだよね」
「出ます。たぶん」
相沢はファイルを持ち直した。「去年の地区大会、写真部が受賞してたよ。河合さんが」
「そうなんですか」
「うん。合評会、なかなか面白いって聞いた」
実結は相沢を見た。相沢も実結を見ていた。廊下に夕方の光が長く入っていた。斜めの光の中に相沢が立っていて、その影が廊下の床に長く伸びていた。
一秒。二秒。
実結は先に目を動かした。「合評会、見られるんですか」
そう、実結は尋ねた。
「一般は入れないと思うけど、どうだろう。聞いてみようか」
「いえ、いいです」と実結は言った。少し急いで。「当日は撮る方で手一杯なので」
「そっか」と相沢は言った。「頑張って」
それだけで、また歩き出した。実結も歩いた。反対の方向へ。
角を曲がってから、実結は少し立ち止まった。
何でもない会話だった。「頑張って」と言われた。それだけのことだった。それだけのことのはずだった。
OM-40がケースの中で重みを持っていた。シャッターを切りたい、とは思わなかった。ただ、重みが確かだった。
光が少し、多かったかもしれない。
アンダーにも、なれなかった。




