第35話 現像、六月の終わりに
金曜の四時、暗室の鍵が開いていた。
扉を引くと、停止液の匂いがした。
誰かが最近使った後の匂いだった。酢酸の、少しだけ刺激のある匂い。最初に暗室に入った日のことを実結は思い出した。あの日の匂いと、今日の匂いが、同じ匂いだった。ただ、今日は怖くなかった。
佳奈が後ろからついてきた。「今日は現像だけ?」
「焼き付けまでやりたいです」
「じゃあ私も残る」
OM-40のカウンターが「36」に達したのは、二日前だった。小樽から帰ってきてから、まだ十八枚残っていた。学校の帰り道、夕暮れ前の電信柱を撮った。佳奈の店の前の、健三が珈琲を運ぶ後ろ姿を撮った。一本目のネガが終わった日と、同じくらい静かな終わり方だった。
四本目が終わった。
* * *
現像タンクにフィルムを入れて、現像液を注ぐ。撹拌。温度を保つ。時間を計る。
暗室の中で、実結は何度やっても好きな時間だった。光のない場所で、像が生まれようとしている。まだ見えない。でも確かに動いている。化学が、光の記録を取り出そうとしている。
停止液を入れた瞬間に、匂いが立った。
今日もこの匂いだ、と実結は思った。五味先生が育った家の匂い。実結が最初に暗室で嗅いだ匂い。同じ匂いが、全然違う記憶に紐づいている。どちらの記憶も、確かに本物だった。
定着液。水洗。ネガを乾かす。
佳奈は自分のネガも一緒に現像していた。OM-4Tiで撮った小樽の分。二人で並んで作業していた。余計な話はしなかった。暗室ではいつもそうだった。やることがある場所では、やることだけをやる。
* * *
焼き付けは、引き伸ばし機の前で一枚ずつになる。
実結は小樽の分から始めた。ネガを見ながら、どれを焼くかを選んでいく。水たまりに映る空。引き込み線の錆色。漁船が離れていく水面の波紋。
「光の割れ目」のネガがあった。
コマを引き伸ばし機にかけて、試し焼きをした。トレイの中で、印画紙がゆっくりと浮かんでくる。停止液に入れる。定着させる。
光の柱が、写っていた。
十秒もなかった一瞬が、ここにあった。石畳全体が光っていた。水たまりが白く飛んでいて、その周囲のコントラストが強くなっていた。露出は少しオーバーだったかもしれない。でも、それがかえって光の強さを出していた。
佳奈が覗き込んだ。
「撮れてたじゃん」
「オーバーかもしれないですけど」
「光だから、それでいいんじゃない」と佳奈さんは言った。「光の写真が、正確な露出で撮れてたら嘘くさい」
実結はそのプリントをバットから出した。水滴を払って、一枚目の場所に置いた。
次を焼いた。引き込み線の錆色が金に変わる寸前のコマ。石畳の濡れた表面。漁船の係留ロープが外れた後の岸壁。
一枚、また一枚と並んでいく。乾くのを待つ間、実結は並んだプリントを見ていた。
小樽の二日間が、四角い紙の上に並んでいた。
* * *
プリントを持ち帰ったのは、夜になっていた。
喫茶小鳥遊の戸締まりが終わって、健三がカウンターを拭いていた。実結は「見てもらえますか」と言って、プリントを並べた。
健三は手を止めた。
一枚ずつ、静かに見ていった。水たまりのコマ。漁船のコマ。引き込み線のコマ。声を出さなかった。コメントもしなかった。ただ、目が動いていた。
引き込み線の錆が金に変わる直前のプリントで、健三の手が止まった。
一秒ではなかった。もっと長かった。線路の消えていく先を、健三はじっと見ていた。写真の中の、どこかへ延びていく錆色の線を。
実結は何も言わなかった。
健三も、何も言わなかった。
しばらくして、健三が視線を上げた。「よく撮れてる」と言った。それだけだった。
実結はそのプリントを、健三さんの手の近くに残したまま、他のプリントを重ねた。健三がそれを自分でプリントの束の一番上に戻した。その動作も、何も言わなかった。
* * *
その夜、部屋に戻って布団に入ってから、実結はOM-40を手の届く場所に置いた。
四本目が終わった。五本目を入れれば、また始まる。
六月が終わる。七月が来る。夏になる。
佳奈さんが「地区大会に出す作品、そろそろ考えといた方がいいよ」と帰り際に言っていた。八月の終わり。まだ先のことだ。でも、先のことが「ある」という感覚が、実結の中にあった。ここで過ごす先が、ある。
七月が怖くなかった。
引き込み線の写真が、健三さんの目を止めた理由が、実結にはまだわからなかった。でも、止まった、ということは確かだった。
止まった場所が、あった。
止まった場所が、また、あった。
* * *
〔第三章 村瀬の看板と、ねじれた背中 了〕




