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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第3章 村瀬の看板と、ねじれた背中

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第34話 小樽合宿、光の割れ目

 夜のうちに雨が来た。


 旅館の屋根を叩く音で目が覚めて、また眠った。朝起きると、雨はやんでいた。窓の外の石畳が濡れていて、水たまりが空を映していた。灰色だった空が、少しだけ白くなっていた。


 朝食の後、五味先生が「今日は自由行動。十三時に駅前」と言った。昨日より短い。帰りの列車が午後に一本しかなかった。


 友里子はまた「一緒に行く」と言った。


     * * *


 濡れた石畳は、昨日より光を持っていた。


 乾いていないから、空の白さを地面が反射している。実結はOM-40を出して、石畳の水たまりを撮った。映っている空が、本物の空より少し歪んでいた。水面の揺れで、白さが震えている。


「水たまり派?」と友里子が言った。

「空が二つある気がして」

「反射、好きだね」

「そうかもしれない」と実結は言った。考えたことがなかったが、言われてみるとそうだった。光が跳ね返るものが好きだ。水面、ガラス、夜の路面。あったものが、別のものの上にもう一度現れる。


 坂を下って港に出た。昨日より海の色が明るかった。雨上がりの空気は透明で、遠くの島の輪郭がはっきり見えた。


 港の端に、引き込み線跡があった。


 昨日久が言っていた場所だった。線路の跡が石畳に残っていて、レールは錆びたまま埋め込まれていた。もう使われていない。でも、確かにあった。


 有栖と久がそこにいた。


 先についていたらしかった。有栖が引き込み線の錆びたレールにしゃがんで、Pen EE-3を構えていた。レールに沿って視線を落とした、低いアングルだった。久は少し離れて立って、有栖が何を撮っているかを見ていた。


 有栖が顔を上げた。「あ、実結先輩」


「何を撮ってたの」と実結は聞いた。

「レールがどこまで続いてるか、見たくて」

「低いアングルの方が、遠くまで見える?」

「引き込まれる感じがする」と有栖は言った。「低くなると、線路が呼んでる気がして」


 実結は有栖が使っていた姿勢のまま、レールに沿って視線を落とした。石畳の向こうまで、二本の錆色が延びていた。どこかで終わっている。でも、ファインダーの中では終わっていなかった。


 久が動いた。


 実結は気づかないふりをした。久がゆっくりと、有栖のいる方へ近づいていく。レールの脇に、しゃがんだ。有栖と同じ高さになった。


 「ここから見ると、全然違う」と久が言った。

 「でしょ」と有栖が言った。


 それだけだった。二人で並んで、同じ方向を見ていた。


 実結はOM-40を下げたまま、その二人を見ていた。撮ろうとは思わなかった。見るだけでいい、という瞬間だった。


     * * *


 光が割れたのは、その直後だった。


 雲に裂け目ができて、そこから六月の光が一本、海へ向かって落ちた。斜めに、速く、一瞬で。石畳の水たまりが全部光り、レールの錆色が金色に変わった。有栖ちゃんが声を上げた——声ではない、息だった。驚いた時の、音にならない息。


 実結はファインダーを上げた。


 考えていなかった。体が動いた。水たまりに映る光の柱。斜めに落ちる光と石畳が作る角度。シャッターを切った。切った。もう一枚。光は速かった。十秒もなかった。


 雲が閉じた。


 光が消えた。石畳が灰色に戻った。レールの錆色が戻った。


 有栖がまだシャッターを切っていた。光が消えた後も、一枚、また一枚。久も、MZ-3を持ち上げていた。


 友里子がGR1をポケットに戻した。いつ出していたのか気づかなかった。


「撮れた?」と友里子が実結に言った。

「わからない」

「現像したら見てみたら」

「そうですね」と実結は言った。今はわからない。でも確かに体が動いた。それが確かだった。


     * * *


 昼前に佳奈さんと合流した。


 港の倉庫が並ぶ通りで、佳奈がOM-4Tiを下げたまま歩いてくるのが見えた。有栖ちゃんが駆け寄って、「光が割れたんです、一瞬だけ」と言った。


「見たよ」と佳奈は言った。「別の場所で私も見てた」

「撮れました?」

「撮れたよ」


 それだけで、佳奈は実結を見た。


「実結も?」

「たぶん」と実結は言った。「わからないけど」


 佳奈が少し実結を見ていた。一秒、二秒。


「なんか変わった」と佳奈は言った。

「え?」

「この三ヶ月で」


 三ヶ月。五月に来て、今は六月の終わりだ。三ヶ月は経っていない。佳奈さんの時間の感覚が、実結の感覚とは違うのかもしれない。それとも、一ヶ月と少しの間に、三ヶ月分のことがあったのかもしれない。


「変わりましたか?」

「最初に来た時と、目が違う」


 実結は何も言えなかった。


「悪い意味じゃないけど」と佳奈は言った。「言い方がわかんない。なんか、ちゃんと見てる感じがする」

「ちゃんと見てる?」

「フレームの外まで見てる感じ。ファインダー閉じた後も、まだ何かを見てる目」


 実結は石畳の濡れた表面を見た。雨上がりの光が、もう乾き始めていた。水たまりが小さくなっていく。空の映り込みが、縮んでいく。


「そんな気はないんですけど」

「ないと思うよ」と佳奈はあっさり言った。「自分にはわかんないもん。そういうの」


     * * *


 帰りの列車は、来た時と同じ函館本線だった。


 行きは曇っていた車窓が、帰りは晴れていた。雨が洗った空が、六月にしては澄んでいた。小樽が遠くなっていく。港が見えなくなった。


 実結はOM-40をケースに入れて、膝の上に置いた。カウンターを確認した。「18」。一日と少しで十七枚。光の割れ目は、何枚か入っているはずだった。現像してみるまで、わからない。


 久が有栖の隣に座っていた。


 来る時は一つ離れた席だった。今は隣だった。何かを話していた。何の話かは聞こえなかった。引き込み線の話かもしれなかった。


 友里子が窓の外を見ていた。GR1はポケットの中だった。


 佳奈が実結の方を向いた。何も言わなかった。また窓の外を向いた。


 実結は車窓の外に流れる景色を見た。札幌が近づいてくる。喫茶小鳥遊が、健三さんが、佳奈さんが暮らしてきた街が。


 窓ガラスに、また実結の顔が薄く映っていた。今日の光を受けた顔が。


 何が変わったかは、わからなかった。でも佳奈には見えるらしかった。


 それで、十分だった。

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