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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第3章 村瀬の看板と、ねじれた背中

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33/41

第33話 小樽合宿、曇りの港

 函館本線の車窓は、出発してすぐに曇りになった。


 六月の終わり、土曜の朝。写真部七人と五味先生の八人が、小樽行きの普通列車に乗った。一時間ほどの距離だった。坂上と河合が向かい合わせで座って、佳奈さんはすでに窓の外を向いていた。久が有栖の隣に座ろうとして、一瞬迷って、一つ離れた席に座った。友里子はGR1をジャケットのポケットに入れたまま、目を閉じていた。


 実結は窓際に座って、OM-40を膝の上に置いた。今朝、新しいフィルムを入れてきた。遠くへ行くときは、新しいところから始めたかった。カウンターが「1」に戻っていた。


 雲が低かった。海の方から来る雲だ、と実結は思った。小樽は港の街だ、と佳奈さんから聞いていた。港の街の空は、内陸とは違う重さがある。あ、こっちの人は「内地」といってるんだっけ。


     * * *


 駅を出ると、石畳の坂が待っていた。


 六月の曇り空は、影を作らない光だった。全部が等距離に見える。でも、その均一な光が石畳の目地を浮かび上がらせていた。石と石の間の、細い線。踏んで、踏んで、また踏んで、すり減った石の表情。誰かがずっと歩いてきた、ということの証拠だった。


「十六時に駅前で集合」と坂上さんが言った。「バラバラに動いていい。ただし二人以上で」

「実結は?」と佳奈さんが実結を見た。

「一人でもいいですか」

「ダメ」と坂上はあっさり言った。「はぐれる」

「じゃあ、私も一人がよかったけど」と友里子さんが言った。「一緒に行く」


 それで決まった。友里子と二人になった。佳奈は有栖を引き連れて港の方へ歩き出した。久が「あ」という顔をして、しかし追いかけず、坂上たちと一緒に古い倉庫街の方へ向かった。


      * * *


 友里子は、一緒にいるが別々に動く人だった。


 並んで歩いているが、見ているものが違う。友里子はGR1を出して、石畳の隙間の草を撮った。それだけだった。次を撮るかもしれないし、しばらく撮らないかもしれない。実結の方を確認しない。実結も確認しなかった。


 二人でいることで「はぐれ」ていない。でも、見ているものは別々だった。それがちょうどよかった。


 港が近づくと、潮の匂いがした。


 六月の海は、実結には初めてだった。北海道の海が。波が低くて、色が暗かった。東京湾の色とは違う。もっと深いところから来る色で、曇り空の灰色を底に吸い込んでいるようだった。


 岸壁に漁船が三艘、泊まっていた。


 一艘だけ、エンジンがかかっていた。船首の方で男の人が作業をしていた。何かを積んでいるらしかった。青いコンテナのようなものを、一つ、また一つ、甲板の上に乗せていく。曇った光が反射しない甲板の上で、コンテナの青だけが鮮やかだった。


 実結はOM-40を持ち上げた。


 ファインダーを覗く。男の人が、また一つコンテナを持ち上げるところだった。ピントを合わせる。アイピースの中で、青が動く。


 シャッターを切った。


 男の人は振り返らなかった。そのまま作業を続けていた。実結は二枚、三枚と撮った。違う角度。甲板に積み上がるコンテナ。エンジンの排気が水面に白い輪を作っていた。


「何を撮ってるの」と友里子さんが隣に来て言った。

「あの船が、もうすぐ出ると思って」

「どうして」

「コンテナを全部積んだら、行くんじゃないかなと思って」


 友里子が岸壁を見た。男の人が最後のコンテナを積んで、船首の方に消えた。少しして、エンジン音が変わった。


 船が、ゆっくりと岸から離れた。


 実結はまた撮った。離れていく船を。岸壁に残った係留ロープの跡を。水面の、船が通った後の波紋を。


「あったことの証拠」と実結は言った。声に出すつもりがなかったのに、出ていた。

「なに?」

「......佳奈さんが言ってた言葉です。消えるんじゃなくて、あったことの方が大事だ、って」


 友里子が少し黙ってから言った。「佳奈がそう言ったの」


「はい」

「そうだね」と友里子は言った。GR1を岸壁に向けた。シャッターが鳴った。「あったことは、消えない」


 実結は友里子を見た。


 「写っていれば?」と実結は聞いた。

 「写ってなくても」


 それだけだった。友里子さんはまたGR1をポケットに入れた。


     * * *


 倉庫街を抜けて、坂を上ると、古い洋館が見えた。


 曇り空の下で、白い壁が白くなかった。光を吸いながら灰色寄りになっていた。でも輪郭ははっきりしていた。雨が来る前の空気は、輪郭を強くする。実結はシャッターを切ったが、うまく撮れた気はしなかった。


 四時少し前に駅前に戻ると、佳奈と有栖が先についていた。佳奈はOM-4Tiをまだ首にかけていた。有栖はPen EE-3を胸の前で抱えていた。二人とも、何かをたくさん撮った後の顔をしていた。


 久たちが少し遅れて来た。久はMZ-3を大事そうに持っていた。「港の引き込み線跡が残ってた」と言った。嬉しそうだった。


 夕方の小樽は、雲が低くなっていた。雨はまだ来ていなかった。


 宿は港の近くの、小さな旅館だった。一泊。明日また、撮る。


 窓から見える港の灯りが、水面に揺れていた。漁船の位置が変わっていた。あの船が戻ってきているのかもしれないし、別の船なのかもしれなかった。


 夜の海は、昼より深い色をしていた。

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