第32話 健三に聞く日
閉店後の喫茶小鳥遊は、ちょうどいい静けさだった。
紀子が先に上がって、実結も部屋に戻りかけて、でも階段の手前で止まった。厨房の方からカップを片付ける音がする。健三が一人で残っていた。
戻るつもりで来たわけではなかった。体が動いた、という感じだった。
「手伝います」と厨房の入口で言った。
「いい」と健三は言った。でも追い払うでもなかった。
実結は入口の柱に少し寄りかかって、健三が皿を拭くのを見ていた。六月の夜は、まだ少し明るい。窓の外の商店街がうっすら橙に染まっていた。
しばらく、二人とも黙っていた。健三は皿を拭き続けた。実結は柱に寄りかかったまま、何を言おうか考えていた。
いや、考えていなかった。もう決まっていた。ただ、始め方がわからなかった。
「健三さん」
「ん」
「聞いてもいいですか」
健三は手を止めなかった。「なんでも聞けばいい」
「佳奈さんは、健三さんの娘さんですか」
皿を拭く布の動きが止まった。一秒だけ。また動き始めた。
「そうだ」
それだけのシンプルな答え。確かめる声でも、驚く声でもない。ただ事実として置いた。
実結は窓の外の橙を見た。
佳奈さんが健三さんの娘だということは、薄く知っていた。家族として一緒に暮らしているのだから、そうだろうと思っていた。確認したかったのは、そこではない。
「佳奈さんの顔が」と実結は言った。「知っている人に似ています」
布巾を持つ手が止まった。今度は長かった。
健三は皿を棚に戻した。次の皿を取らなかった。流し台の縁に両手をついて、少し考えている姿勢になった。実結の方を向いていなかった。
「誰に」とは聞かなかった。
実結は、その「聞かなかった」ことの重さを、ゆっくりと受け取った。聞かないということは、聞かなくてもわかっているということかもしれない。あるいは、聞いてしまうと何かが崩れると思っているのかもしれない。どちらなのかは、わからなかった。
「そうかもしれないな」
低い声だった。短かった。肯定でも否定でもない——でも否定ではなかった。
窓の外の橙が、少し暗くなっていた。商店街の灯りが一つ、また一つと点き始める。
「ありがとうございます」
実結は言った。何への礼なのか、今夜も言わなかった。今夜も、健三さんは聞かなかった。
「上がりなさい。紀子が待ってる」
実結は柱から離れた。厨房を出る前に一度だけ振り返った。健三はまた皿を拭いていた。布の動きが、さっきと同じだった。
階段を上りながら、実結はまだ何も解決していないことを知っていた。「そうかもしれないな」は、確認ではない。でも否定でもない。その「かもしれない」の中に、実結の問いがまだ浮いていた。
浮いたまま、ここにあった。




