第31話 五味先生の昨日
化学準備室のドアをノックしたのは、放課後のことだった。
返事がなくて、もう一度ノックした。中から「はーい」という声が来た。五味先生の声だが、いつもより間が抜けていた。
扉を開けると、五味先生は棚に向かって何かの瓶の位置を変えていた。白衣を着ている。OM-2Nが机の端に置いてあった。今日は撮ってきた後なのか、撮りに行く前なのか、実結にはわからなかった。
「麻倉。どうしたの?」
「現像の時間、確認したくて。今週、暗室が使えるか聞こうと思って」
「何曜がいいの?」
「木曜か金曜、どちらかで」
「木曜は坂上が使う。金曜が空いてるわよ」
「ありがとうございます」
それだけで話は終わりだった。失礼します、と言って出ようとして、実結は少し迷った。
「あの」
「なに」
「先週、佳奈さんと……村瀬写真館の前を通ったんですけど」
五味先生が振り返った。瓶を持ったままだった。
「佳奈が連れてったの?」
「はい。バスを降りて」
「あの子は」と五味先生は言った。それだけで、次が来なかった。「あの子は」のあとに来るはずの言葉を、飲み込んだ。
瓶を棚に戻して、椅子を引いた。座る気らしかった。実結は入っていいのかどうかわからず、ドアの外に半分立ったままでいた。
「入りなさい。立ち話もなんだから」
実結は中に入った。椅子はなかったので、机の端に少し寄りかかって立った。
「シャッターが下りてました」と実結は言った。「定休日でした」
「月火が休みなの。知らなかったでしょ」
「はい。営業案内が貼ってあって」
「お父さんが一人でやってるから、あんまり無理できないのよ」
五味先生は話す調子で言った。感情が乗っていない。事実として置いている声だった。
「先生が育ったのも、あの二階ですか」
「そう」と五味先生はあっさり言った。「二階が住居。物心ついた時からお父さんが現像してた。停止液の匂いが、家中に染みついてた」
実結はそれを聞いて、何も言えなかった。
停止液の匂い。
自分が初めて暗室に入った日のことを思った。プリントが浮かんでくる感覚。光が来る前の闇の中の感覚。それが五味先生にとっては、家の匂いだった。
「だから写真が好きになったんですか」
「どうかしらね」と五味先生は言った。「好き、というより、空気みたいなものだったから。好きとか嫌いとか言う前に、そこにあった」
「それで継がなかったんですか」
間があった。
「違うわ」と五味先生は言った。「空気みたいなものだったから、継げなかったの。好きなものは、仕事にすると壊れることがあるでしょ。お父さんを見てて、そう思った」
「壊れましたか。お父さんの写真への好きが」
「壊れてないと思うけど」と五味先生は言って、少し考えた。「でも、私には判断できない。中にいる人には、見えないものがあるから」
実結は黙った。
五味先生が机の上のOM-2Nを少し動かした。癖なのか、無意識なのか、ときどきカメラに触れる。
「先生は、学生の頃はどこにいたんですか」
「どこ、というのは」
「学校、とか」
「旭川よ」と五味先生は言った。「大学が旭川だったから。二十代の前半は」
旭川。
実結の中で何かが引っかかった。健三さんも旭川の出身だ。でも、だからどうだということはない。旭川は大きな街で、縁もゆかりもない二人が同時代にいても不思議ではない。
「学生時代に、写真を撮っていましたか」
「撮ってたわよ」と五味先生は言った。「お父さんのカメラを借りて、フィルムだけ自分で買って」
「OM-1Nですか」
「OM-1Nは後よ。当時は……まあ、色々。学生らしいカメラで」
そこで少し止まった。珍しい止まり方だった。普段の五味先生は止まらない。「〜けど」で受けて着地する。でも今は、着地の前で止まった。
「学生の頃に、変わった人に会ってね」
また止まった。
「変わった人、ですか」
「写真を撮ってた人よ。変わった撮り方をしてた。当時の私には理由が全然わからなかったんだけど」
「今はわかるんですか」
五味先生が実結を見た。
視線が、一秒、二秒、長かった。実結は何か間違えたことを言ったかと思った。でも五味先生の顔は、咎めてはいなかった。どこか別のものを見ているような目だった。
「今はね」と五味先生は言った。「なんとなく、わかる気がするわ」
それだけで、話が変わった。
「金曜の暗室、四時から使えるように鍵を開けとく。フィルムは足りてる?」
「あります」
「じゃあよかった」
五味先生が立ち上がった。話が終わった、という姿勢だった。実結は「失礼します」と言って、扉を開けた。
廊下に出てから、もう一度ドアを閉める前に振り返った。五味先生はまた棚の方を向いていた。
変わった人に会ってね、と言った時の止まり方を、実結はまだ覚えていた。何かを言いかけて、止まった。着地しなかった。
五味先生がどこで止まったのかが、わからなかった。でも、止まった場所があったことは、わかった。
廊下は夕方の橙色の光に満ちていた。




