表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第3章 村瀬の看板と、ねじれた背中

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/41

第30話 ねじれた背中

 六月の中旬になると、喫茶小鳥遊の窓に朝露がつくようになった。


 早起きした朝、実結は一階に降りて、厨房から続く裏庭に出ることがある。コンクリートの小さな庭で、ごみの集積所と物置と、灯油タンクが置いてある。それだけの場所だが、朝の光が建物の間から斜めに入ってきて、コンクリートの目地に沿って影が走る。実結はそこで、OM-40を持って、ただ光を見る。


 撮ることもあるし、撮らないこともある。


 その朝は、撮らないつもりで出てきた。フィルムカウンターが「27」まで進んでいた。残り九枚。惜しむつもりはないが、何でもない朝に使いたくもなかった。


 物置の扉が開いていた。


 中に健三がいた。背を向けて、棚の上の段を探っている。左手で棚の縁を掴み、右手を伸ばして何かを取ろうとしていた。上着を着ていなかった。白いシャツを着ていたが、棚に手を伸ばした拍子に、裾が持ち上がった。


 背中が見えた。

 実結は、一秒、息を止めた。


 傷、ではなかった。いや、傷ではあるのだが——それよりも、背骨の左側が、明らかにかたちが違った。盛り上がっているのではなく、押し込まれたように歪んでいた。皮膚の表面ではなく、もっと深いところが、ねじれていた。


 健三さんが目当てのものを取った。裾が戻った。振り返る前に、実結は一歩下がった。


「実結さんか」


 気づいていた。


「おはようございます」と実結は言った。声が、普通かどうか自分ではわからなかった。

「早いな」

「少し起きてしまって」


 健三さんは取ってきたものを——木箱のようなものだった——物置の手前に置いた。裾を直すでもなく、実結が何を見たかを確認するでもなく、ただ普通に振る舞っていた。


 OM-40が手の中にある。実結は、一瞬、ファインダーを上げることを考えた。


 考えただけだった。


 上げなかった。上げられなかった、という方が正確かもしれない。撮れなかったのではなくて——何を撮っているのかが、自分でわからなかった。背中の傷を撮りたかったわけではない。あの歪みの、意味を撮りたかった。でも、意味はフィルムには写らない。


「山で、ケガしたんですか」


 口に出してから、直接すぎた、と思った。


 健三さんは少し間を置いた。驚いたのではなく、どこから話すかを考えている間だ、と実結にはわかった。


「そうだ」

「北海道の山ですか」

「旭川の近くだ。知らない山の名前を言っても、わからないだろうが」

「......大変でしたね」


 言ってから、間抜けだと思った。大変でしたね、で済む話ではない。でも健三さんは特に訂正しなかった。


「そうでもない」


 それだけだった。


 実結は裏庭のコンクリートを見た。朝の光が目地の影を走らせていた。さっきまで撮ろうか迷っていた光だった。今は、もう気が向かなかった。


「写真は、山でもやっていたんですか」

「やっていた」と健三さんは言った。短く。

「やめたのは、怪我の後ですか」


 また間があった。今度は少し長かった。


「そうじゃない」


 実結は顔を上げた。健三さんは木箱の埃を手で払っていた。こちらを向いていなかった。


「やめたのは、撮れなくなったからだ」

「怪我ですか?」

「いや」


 そこで止まった。続けるかどうか、考えている。実結は待った。


「見たくなくなった」


 それだけ言って、健三さんは木箱を持ち上げた。「紀子がそろそろ起きる。一緒に来るか?」


 実結は一秒だけ、今の言葉の意味を探した。見たくなくなった。山を? 写真を? 何かを——見たくなくなった。


「行きます」と実結は言った。


 裏庭を出る前に、一度だけコンクリートの目地の影を見た。OM-40はケースに入れた。カウンターは「27」のままだった。


 そして、撮らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ