第30話 ねじれた背中
六月の中旬になると、喫茶小鳥遊の窓に朝露がつくようになった。
早起きした朝、実結は一階に降りて、厨房から続く裏庭に出ることがある。コンクリートの小さな庭で、ごみの集積所と物置と、灯油タンクが置いてある。それだけの場所だが、朝の光が建物の間から斜めに入ってきて、コンクリートの目地に沿って影が走る。実結はそこで、OM-40を持って、ただ光を見る。
撮ることもあるし、撮らないこともある。
その朝は、撮らないつもりで出てきた。フィルムカウンターが「27」まで進んでいた。残り九枚。惜しむつもりはないが、何でもない朝に使いたくもなかった。
物置の扉が開いていた。
中に健三がいた。背を向けて、棚の上の段を探っている。左手で棚の縁を掴み、右手を伸ばして何かを取ろうとしていた。上着を着ていなかった。白いシャツを着ていたが、棚に手を伸ばした拍子に、裾が持ち上がった。
背中が見えた。
実結は、一秒、息を止めた。
傷、ではなかった。いや、傷ではあるのだが——それよりも、背骨の左側が、明らかにかたちが違った。盛り上がっているのではなく、押し込まれたように歪んでいた。皮膚の表面ではなく、もっと深いところが、ねじれていた。
健三さんが目当てのものを取った。裾が戻った。振り返る前に、実結は一歩下がった。
「実結さんか」
気づいていた。
「おはようございます」と実結は言った。声が、普通かどうか自分ではわからなかった。
「早いな」
「少し起きてしまって」
健三さんは取ってきたものを——木箱のようなものだった——物置の手前に置いた。裾を直すでもなく、実結が何を見たかを確認するでもなく、ただ普通に振る舞っていた。
OM-40が手の中にある。実結は、一瞬、ファインダーを上げることを考えた。
考えただけだった。
上げなかった。上げられなかった、という方が正確かもしれない。撮れなかったのではなくて——何を撮っているのかが、自分でわからなかった。背中の傷を撮りたかったわけではない。あの歪みの、意味を撮りたかった。でも、意味はフィルムには写らない。
「山で、ケガしたんですか」
口に出してから、直接すぎた、と思った。
健三さんは少し間を置いた。驚いたのではなく、どこから話すかを考えている間だ、と実結にはわかった。
「そうだ」
「北海道の山ですか」
「旭川の近くだ。知らない山の名前を言っても、わからないだろうが」
「......大変でしたね」
言ってから、間抜けだと思った。大変でしたね、で済む話ではない。でも健三さんは特に訂正しなかった。
「そうでもない」
それだけだった。
実結は裏庭のコンクリートを見た。朝の光が目地の影を走らせていた。さっきまで撮ろうか迷っていた光だった。今は、もう気が向かなかった。
「写真は、山でもやっていたんですか」
「やっていた」と健三さんは言った。短く。
「やめたのは、怪我の後ですか」
また間があった。今度は少し長かった。
「そうじゃない」
実結は顔を上げた。健三さんは木箱の埃を手で払っていた。こちらを向いていなかった。
「やめたのは、撮れなくなったからだ」
「怪我ですか?」
「いや」
そこで止まった。続けるかどうか、考えている。実結は待った。
「見たくなくなった」
それだけ言って、健三さんは木箱を持ち上げた。「紀子がそろそろ起きる。一緒に来るか?」
実結は一秒だけ、今の言葉の意味を探した。見たくなくなった。山を? 写真を? 何かを——見たくなくなった。
「行きます」と実結は言った。
裏庭を出る前に、一度だけコンクリートの目地の影を見た。OM-40はケースに入れた。カウンターは「27」のままだった。
そして、撮らなかった。




