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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第3章 村瀬の看板と、ねじれた背中

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第29話 村瀬写真館の看板

 バスを降りると、商店街だった。


 ゆるい坂の途中に、八百屋と薬局とクリーニング店が並んでいる。六月の昼前の光が均一に降っていた。午前中の堤防とは違う。影が短くて、何もかもが等距離に見えた。


 佳奈が少し先を歩いていた。どこへ向かっているのか、迷っていなかった。坂を下って、角を折れる。住宅街に入ると、また少しだけ静かになった。


「ここ」


 佳奈が立ち止まった。


 二階建ての建物だった。一階が店舗で、シャッターが下りている。シャッターの上に、看板があった。


  ≪村瀬写真館≫


 紺地に白抜きの文字で、そう書いてあった。「創業昭和三十四年」という小さな添え書きが、右端についている。看板の縁が錆びていた。でもシャッターに貼られた営業案内の用紙は、まだ新しかった。定休日は月曜と火曜、営業時間は十時から六時。


「五味ちゃんの実家」


 佳奈は感情なく言った。事実として言う。


「五味先生の?」


「そう。旧姓が村瀬なんだよ。結婚して五味になったけど、お父さんがここをやってて、継げって言われてたんだって」

「継がなかったんですか」

「教師になったから。化学じゃなくて、写真を教えたかったって言ってた」


 実結は看板を見ていた。「創業昭和三十四年」。1959年だ、と計算する。三十九年前。実結が生まれる三十一年前。


「五味先生は、ここで育ったんですか」

「たぶん。二階が住居だから」と佳奈は言った。「一回だけ、この前を通ったときに話してくれた。お父さん、写真が好きすぎて写真館を作ったけど、時代的にキビしくなってきたって」


 DPEショップに押されている、ということかもしれなかった。1998年、写真はまだフィルムだが、現像は近くのお店に任せる時代になっていた。専門の写真館が細く長く続くのは、それだけで根性が要る。


 OM-40を、取り出すつもりで手が動いた。でも止まった。


 これを撮っていいのかどうか、わからなかった。五味先生の実家の、今日は定休日のシャッターを。誰にも許可を取っていない。佳奈はすでに何かを見ていた——看板でも、シャッターでもなく、二階の窓を見ている。


 カーテンが引かれていた。動かなかった。


「五味ちゃん、今日学校じゃないのかな」

「……土曜は半日ですよ」と実結は言った。「もう帰ってるかも」


「そっか」


 佳奈は二階の窓を見たまま、少し何かを考えている顔をした。「入れないね」と言って、また歩き出した。


 実結はそのまま看板を見ていた。一秒。二秒。


 写真館、という業態が、実結の頭の中で何かに引っかかっていた。写真を撮ること。現像すること。焼くこと。それを生業にした人が、この町にいた。その娘が、今実結の顧問をしている。


 しかも、学生時代に。


「佳奈さん」

「ん?」と佳奈が振り返った。

「五味先生の学生時代って、どこで過ごしたか知ってますか」

「知らない。なんで?」

「......いえ、なんとなく」


 佳奈さんは一秒だけ実結の顔を見て、また歩き出した。何も聞かなかった。佳奈さんはいつもそうだった。追わない。


 実結はOM-40を持ち直した。エバーレディケースのスナップボタンに触れる。開けなかった。


 「村瀬写真館」の看板が、均一な昼の光の中にあった。錆の色が、白抜きの文字の縁を少しずつ食っていた。でも、まだ読めた。


 まだ、そこにあった。

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