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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第3章 村瀬の看板と、ねじれた背中

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第28話 週末の光、佳奈の撮り方

 集合は朝の九時で、喫茶小鳥遊の前だった。


 実結が降りてくると、佳奈さんはもう外に立っていた。OM-4Tiを首にかけて、何かを見ている。実結の方を向いていない。店の向かいの電信柱のあたりを、じっと見ていた。


 「おはようございます」

 「ん」と佳奈さんは言った。視線がまだ電信柱の方にある。「あの電線、好きなんだよね」


 実結も向いた。電信柱から四方へ広がる電線が、朝の空に黒く伸びている。「どのへんが好きですか」


 「交差してるとこ。線が重なると、奥行きが変わる」


 それだけ言って、佳奈さんはOM-4Tiを持ち上げた。迷わなかった。ファインダーを一秒も覗かずにシャッターを切って、また下ろした。


 「行こう」


 どこへ行くかは、まだ教えてもらっていなかった。


     * * *


 バスで二十分、乗り換えて五分歩いた先が、佳奈さんの言う「光がいい場所」だった。


 豊平川の堤防だった。


 川沿いに土手が続いていて、草が短く刈り込まれている。川の向こうに低い山の稜線が見えた。橋が一本、斜めに架かっている。自転車で渡る人の影が遠くに動いていた。


 六月の朝の光は、まだ横から来ていた。草の影が長い。土手の斜面が、光と影を半分ずつ分けている。


 「ここ、午前中だけなんだよ」と佳奈さんは言った。「昼になると光が上に来て、全部平らになる」


 実結はOM-40を取り出した。エバーレディケースのスナップボタンを外して、ストラップを首にかける。フィルムカウンターを確認する。「7」。第二章第十節の部室以来、少し撮っていた。


 佳奈さんはすでに歩き始めていた。


 速くはない。でも迷いがない歩き方だった。目が先に動いて、体が後からついていく、という感じではなかった。目と体が同時に動いていた。何かが視野に入ったとき、すでに半歩前に出ている。


 実結はしばらく、撮らずに歩いた。


 橋の影が土手の草を斜めに横切っていた。誰かが犬を連れて歩いてくる。犬の足が四つ、草の上に影を作っている。佳奈さんが立ち止まった。OM-4Tiが上がる。シャッター。また歩く。振り返らない。


 一度も、「撮っていい?」と言わなかった。


 実結は犬が通り過ぎた後の草を見た。四つの足跡が、まだ少し草を押し倒していた。そこにOM-40を向けた。ファインダーを覗く。影と草と、足跡の形。シャッターを切った。


 「撮った?」と佳奈さんが前を向いたまま言った。

 「はい」

 「何を?」

 「さっきの犬の、足跡みたいなの」


 佳奈さんが振り返った。草を見る。また前を向く。「そっちを撮るんだ」


 批評ではなかった。ただ確認した、という声だった。


     * * *


 土手を端まで歩いて、折り返した。


 帰り道は光の角度が変わっていた。さっきまで影だった斜面が光を受けていて、光だった場所が影になっている。同じ場所が、違う場所になっていた。


 佳奈さんが草の上に座った。土手の斜面の途中で、唐突に。膝を抱えてOM-4Tiを胸の前に置く。


 実結も隣に座った。


 川の音が近かった。思ったより大きい音だった。六月の川は水量が多い。橋の欄干に鳩が一羽止まっていて、すぐに飛んでいった。


「なんで写真を撮るんですか」


 口に出してから、直接すぎたかと思った。でも佳奈さんは特に驚かなかった。川の方を向いたまま、少し考えた。


「なくなるから」


 それだけ。


「なくなるから、撮る?」

「うん。あの犬、もういないじゃん。さっきの光も、もうない。橋に止まってた鳩も」


 実結は川を見た。水が流れている。流れているから、川は川のままでいられる。


「消えるものを撮ってる、ってことですか」

「うーん」と佳奈さんは言った。「消えるっていうより……ここにあった、っていう記録かな。消えたことより、あったことの方が大事」


 実結は黙った。


 倉田さんに「消えるものを撮っています」と言った。そっちが先だと思っていた。でも佳奈さんの言い方は、少し違う。消えることへの執着ではなく、あったことへの確認。


 同じものを見ている。でも立っている場所が、少し違う。


「実結は?」と佳奈さんが聞いた。

「……あったことの証拠を撮ってる、という気はします。でもまだ、うまく言えない」

「言えなくていいんじゃない」と佳奈さんはあっさり言った。「撮ってる間に、だんだんわかってくる」


 それは慰めではなかった。本当にそう思っているから言っている声だった。


     * * *


 帰り道は別のバスに乗った。佳奈さんが「こっちの方が商店街を通るから」と言った。


 窓から見える街が、朝と違う光の中にあった。昼前の光は均一で、影が短い。朝に撮ったものが、もう少し違う顔をしていた。


 バスの窓に、実結の顔が薄く映っていた。後ろに流れる街と重なって、よくわからない像になっている。現像する前のフィルムみたいだ、と実結は思った。何が写っているか、まだわからない。でも確かに、光を受けた。


「次のバス停、降りていい?」


 佳奈さんが突然言った。


「何かあるんですか」

「五味ちゃんの実家の近く」


 実結は聞き返す前に、バスが止まった。佳奈さんがもう立ち上がっていた。


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