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あの、忘れられない停止液の匂い  作者: ちとせ鶫
第2章 現像液の解像度

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第27話 ゾーンに入れる

 放課後の部室に日が差し込んでいた。


 六月の光は透明だ、と実結は思った。東京ほどじゃないけれど、五月のそれより少し水分が多い気がする。窓枠の影が床に長く伸びて、壁に貼られたプリントたちを斜めに照らしていた。


 OM-40の軍艦部、巻き上げクランクを引き起こして、フィルムを押さえていた蓋を開ける。三本目の新しいフィルムをパトローネから引っ張り出して、スプールの溝に差し込む。フィルムを送ってたわみがなくなったことを確認して、蓋を閉める。フィルムカウンターが「1」に戻るまで、空シャッターを二回。


 クシュ、ジャ。クシュ、ジャ。

 布幕横走りシャッターの独特な音がする。


 三本目が始まった。それだけのことなのに、少し気持ちが変わる感じがした。


「先生から借りてきた」


 久が部室の扉を開けたのは、その直後だった。胸の前に抱えているのは見慣れないカメラだった。黒いボディ。「OLYMPUS OM-30」というロゴが軍艦部に入っている。


「五味先生の?」

「うん。ゾーンフォーカス試してみたくて」


 友里子さんが棚から顔を上げた。「ゼロインフォーカス」と言った。


「え?」

「そのカメラで久が試したいやつの名前。正確にはゾーンじゃなくて、ゼロ」


 久は少し目を丸くした。「詳しいね」


「知ってるだけよ」と友里子さんは言った。それだけだった。


 有栖が窓際の椅子から降りてきて、好奇心のある顔でOM-30を覗き込んだ。


「ゼロインフォーカスって何ですか?」


 友里子が引き取った。「ピントを任意の位置に合わせる。あとは何も考えない。被写体がフレームに入るように構える。ピントを置いた位置に被写体が入った時点で自動でシャッターが切れる。シャッターを切らなくていい」


「タイミングを狙わなくていい。ピント位置に被写体が入るとシャッターが勝手に切れる」と久が繰り返した。

「フレームに入れるだけでいい」と友里子さんは言った。「そのための構図を体が先に選ぶ」


 久はOM-30をゆっくり持ち上げた。ファインダーを覗く。少し動く。また止まる。


 実結は壁際から見ていた。久が何を考えているかは、だいたいわかった。ファインダーの中に有栖を入れることを、久は試みている。ちゃんと撮れなかったら嫌だから撮れない——円山公園でそう言っていた。でも今は、狙わなくていいカメラを持っている。


 シャッターが鳴った。


 小さな音だった。MZ-3のそれとも違う、OM-30固有の音だった。久はファインダーから目を離して、自分の手の中のカメラを見た。


 有栖は気づいていないのか、また窓の外を向いていた。六月の空を見ている。


「どうだった?」と実結は聞いた。


 久は少し考えてから「入れただけだった」と言った。


「入れただけだった?」

「被写体をフレームに入れることに、緊張しなかった」


 それは少し違う話だ、と実結は思った。ちゃんと撮れる、ということと、緊張しない、ということは、別のことだ。でも、その二つが久くんの中では繋がっているのかもしれない。


「現像したら見てみたら」と友里子さんが言った。「何が写ってるかは、その後にわかる」

「そうだね」と久さんは言った。素直な声だった。


 扉がまた開いて、佳奈さんが入ってきた。


 OM-4Tiを肩にかけて、どこかを撮ってきた後の顔をしていた。目が少し遠くを向いている。撮ってきた直後の佳奈さんはいつもそうだった。まだ現像していない像を、目の中に入れたまま歩いている。


「実結?」

「なに?」

「週末は、予定ある? それとも暇?」


 佳奈さんはそれだけ言った。何を撮りに行くのか、どこへ行くのか、何も言わなかった。


 実結はOM-40を持ち直した。三本目のフィルムが入っている。一から始まったカウンターが、まだ「2」にしか進んでいない。


「暇です。予定はない」

「じゃあ行こう。光がいい場所、知ってる」


 佳奈さんはそれだけ言って、棚の自分のプリントを確認しに行った。


 実結は窓の方を向いた。六月の光が透明に斜めっている。久さんがOM-30のスプールを巻き上げる音が、部室の空気の中に混じった。


 撮りたいものが、また増えた気がした。


     * * *


〔第二章「現像液の解像度」 了〕


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