第八話 鬼の幼体、ヨキ
あの田で椿象を退治してから、数日が経った。
「……さて」
俺は目の前に座る小さな獣を見た。
「きゅ?」
白と灰色の毛に覆われた、丸っこい身体。
短い手足。
ふわふわの尻尾。
頭には、小さな角が二本。
前回の妖怪退治のあと、俺に懐いてきた謎の生き物である。
「やっぱり、お前は式神にするべきだな」
「きゅ!」
嬉しそうに尻尾を振った。
……本当に可愛い。
問題は。
「周囲からは鬼の幼体にしか見えないらしいけど」
「きゅ?」
「いや、気にするな」
俺は苦笑した。
陰陽師にとって式神とは、ただのペットではない。
主人の命令に従い、時には身を挺して主人を守る存在だ。
そのためには、きちんと主従の契りを結ぶ必要がある。
俺は陰陽寮で教わった式神召喚の作法を思い出しながら、準備を始めた。
まず、清めた場所に白い紙を敷く。
その中央に朱で円を描く。
円の四方に、東西南北を示す符を置く。
そして、その中央に小さな器を置いた。
「さて」
俺は獣を見た。
「ここから先は、お前を正式に俺の式神にする」
「きゅ」
「俺の命令に従う代わりに、俺がお前を守る」
「きゅっ」
どうやら理解しているらしい。
俺は獣を抱き上げ、朱を少しだけ指先につけた。
そして、その額に小さな印を描く。
「我、藤原晴蕪」
静かに名乗る。
「汝を我が式神として迎える」
四方の符を一枚ずつ起こす。
「天地玄妙」
東。
「陰陽調和」
西。
「四方結界」
南。
「神鬼従属」
北。
最後に中央の符を持ち上げる。
「――急々如律令」
瞬間。
四方の符が淡く光った。
風が起こる。
小さな獣の身体がふわりと浮かんだ。
「きゅ……」
光が獣を包む。
そして。
額に小さな朱色の印が浮かんだ。
次の瞬間。
すっと光が消える。
獣が俺の腕の中に戻ってきた。
「……終わった?」
「きゅ!」
尻尾を振っている。
「成功したみたいだな」
俺は頭を撫でた。
「そういえば、まだ名前を決めてなかったな」
「きゅ?」
「鬼の幼体だから……幼鬼」
俺は少し考えた。
「ヨキ、でどうだ?」
「きゅ!」
「気に入ったか?」
「きゅきゅ!」
どうやら気に入ったらしい。
「よし。今日からお前はヨキだ」
「きゅー!」
ヨキが嬉しそうに俺の膝の上で丸くなった。
式神にしたことで、さらに一つ分かった。
ヨキは、俺の命令があればいつでも呼び出せる。
普段は異界に近いところに身を置いているらしく、姿を消している。
だが。
「ヨキ」
「きゅ!」
名前を呼ぶと。
俺の影から、ぽん、と飛び出してくる。
「……便利だな」
「きゅ!」
ヨキは得意げに胸を張った。
◇
そんなある日のことだった。
「藤原晴蕪様に、お願いしたいことがございます」
屋敷にやってきたのは、見事な衣を身につけた使者だった。
「どのようなご依頼でしょう?」
「我が主君の奥方様が、怪異に悩まされております」
「怪異?」
「はい」
使者の表情は真剣だった。
「夜になると、奥方様が苦しみ始めるのです」
「病気では?」
「医師も診ました。しかし原因が分かりません」
「なるほど」
「そして昨夜」
使者が声を落とした。
「奥方様の寝所に、鬼が現れました」
俺は立ち上がった。
「鬼?」
「はい」
「分かりました。案内してください」
◇
屋敷に入ると、すぐに異様な空気を感じた。
高貴な人間の屋敷らしく、調度品も立派だ。
だが。
妙に空気が重い。
「……これは」
俺は眉をひそめた。
怨念のようなものが漂っている。
普通の病ではない。
俺は奥方の寝所へ向かった。
「失礼します」
御簾の向こう。
一人の女性が横たわっていた。
顔色が悪い。
「う……」
女性が呻く。
「苦しい……」
俺は周囲を見回した。
その瞬間。
――ぞくっ。
背筋に悪寒が走った。
「来る!」
天井から。
黒い腕が伸びてきた。
「――っ!」
俺は咄嗟に後ろへ飛ぶ。
どすん!
畳に黒い手が突き刺さった。
「鬼……!」
巨大な影が天井から這い出してきた。
角。
長い爪。
裂けた口。
そして赤く濁った目。
その姿は、人間の女のようでもあり、鬼のようでもあった。
「晴蕪様!」
侍女が悲鳴を上げる。
「下がってください!」
俺は呪符を構えた。
「急々如律令!」
呪符を投げる。
鬼の胸に命中。
――バンッ!
光が弾ける。
だが。
「効かない!?」
鬼が笑った。
そして腕を振る。
「ぐっ!」
吹き飛ばされた。
背中を柱に叩きつけられる。
「晴蕪様!」
痛い。
息ができない。
こんな力……!
「こいつ……本物の鬼か!」
俺は必死に立ち上がった。
だが。
鬼はすでに目の前にいた。
巨大な爪が振り上げられる。
――まずい。
避けられない。
次の瞬間。
「きゅ」
小さな声が聞こえた。
「……ヨキ?」
俺の影から。
白い毛玉が飛び出した。
そして。
俺の前に立つ。
「ヨキ、逃げろ!」
だが。
ヨキは振り返った。
そして。
俺を見た。
つぶらな瞳。
いつもの可愛らしい顔。
その顔が。
ゆっくりと変わった。
「……え?」
身体が膨れ上がる。
毛が逆立つ。
小さな角が、見る間に伸びていく。
四肢が太くなる。
爪が鋭く伸びる。
背中が大きく盛り上がる。
そして。
俺の目の前に立っていたのは。
先ほどまでの可愛らしい毛玉ではなかった。
巨大な鬼だった。
――いや。
鬼という言葉ですら、生ぬるい。
人間の倍ほどもある巨体。
全身を覆う灰白色の長い毛。
額から二本の巨大な角が生え、その先端は鋭く天井を向いている。
口元からは長大な牙が二本突き出していた。
目は四つ。
そのすべてが赤く光っている。
両腕は異様に太く、その先には刀のような爪。
そして。
俺を守るように立った背中から、黒い炎のような妖気が噴き上がっていた。
「…………」
俺は言葉を失った。
さっきまでのヨキはどこへ行った。
「グルルルル……」
ヨキが低く唸る。
鬼が怯えた。
「な……」
そして。
ヨキが一歩踏み出す。
――ドン。
畳が沈んだ。
鬼が後退する。
「グルァッ!」
ヨキが吠えた。
空気が震える。
窓ががたがたと鳴った。
「ひっ……!」
侍女が腰を抜かした。
鬼でさえも。
恐怖に顔を歪めた。
「お前……」
俺は呟いた。
「そんな姿になれたのか……?」
ヨキは振り返った。
四つの赤い目が俺を見る。
そして。
「……きゅ」
声だけはいつものヨキだった。
「…………」
俺は思わず笑った。
「なんだ、それ」
怖すぎるだろ。
その姿で「きゅ」は反則だ。
ヨキは再び鬼へ向き直る。
そして。
一瞬だった。
鬼の姿が消えた。
いや。
ヨキが動いた。
次の瞬間。
ドゴォン!
鬼が壁に叩きつけられた。
「――――!」
ヨキの爪が、鬼の身体を押さえつける。
「ヨキ!」
俺は叫んだ。
「殺すな!」
ヨキがこちらを見る。
そして、鬼を押さえたまま止まった。
「そうだ。俺が祓う」
俺は立ち上がった。
震える手で呪符を取り出す。
さっきの攻撃で、かなり消耗している。
だが。
ここで退くわけにはいかない。
「陰陽師なら……最後までやる!」
俺は呪符を構えた。
「急々如律令!」
呪符が鬼の額に張り付く。
鬼が絶叫する。
黒い煙が噴き出した。
「――――!」
その煙の中に。
一人の女の姿が浮かび上がった。
美しい女だった。
しかし、その顔は憎悪に歪んでいる。
「なぜ……」
女が呻く。
「なぜ、あの女ばかり……!」
俺は目を細めた。
「なるほど」
ようやく分かった。
「この鬼は、お前自身だったんだな」
女が叫ぶ。
「私はあの人を愛している!」
「この奥方の夫を?」
「そうよ!」
女の声が響く。
「なのに、あの女がいる!」
嫉妬。
恨み。
執着。
それが生霊となって、この屋敷に飛んできた。
「つまり、お前は生霊か」
「返して……!」
「断る」
俺は呪符を掲げた。
「人の縁を呪いで奪うな」
最後の呪符を投げる。
「――急々如律令!」
光が弾けた。
女の姿が崩れていく。
「いやあああああ!」
怨念が煙となって散る。
そして。
完全に消えた。
部屋が静かになる。
ヨキの身体が縮んでいく。
巨大な鬼の姿が消え。
いつもの小さな毛玉へ戻った。
「きゅ」
俺の足元へ駆け寄ってくる。
「……お前、本当に便利だな」
「きゅ!」
俺はヨキを抱き上げた。
もふもふだった。
さっきまであれほど恐ろしい姿だったとは、とても思えない。
◇
「ありがとうございます……!」
奥方は涙を流していた。
「本当に……本当にありがとうございます!」
「いえ。陰陽師として当然のことをしたまでです」
「当然などではありません!」
奥方は深々と頭を下げた。
「私は、もう助からないのだと思っておりました」
「奥方様がご無事で何よりです」
そこへ。
「晴蕪殿!」
大きな声がした。
入ってきたのは、立派な装束を身につけた男性だった。
この屋敷の主。
そして。
「大納言様……」
侍女が頭を下げる。
大納言。
朝廷でも有力な地位にある人物だ。
「そなたが晴蕪殿か!」
「はい」
「聞いたぞ!」
大納言は俺の両肩を掴んだ。
「我が妻を救ったのは、そなただと!」
「いえ、まあ……」
「しかも、鬼を退けたそうだな!」
「生霊です」
「何にせよ同じことだ!」
大納言が笑う。
「陰陽寮の学生だと聞いていたが……とんでもない!」
「いえ、まだまだ修行中です」
「謙遜するな!」
大納言が俺の肩を叩く。
「この若さで鬼を退け、妻を救うとは!」
「……」
「晴蕪殿!」
大納言は真剣な顔になった。
「そなたに約束しよう」
「何をでしょう?」
「今後、そなたが陰陽師の道を進むうえで、私にできることがあれば力を貸そう」
「……!」
「困ったことがあれば、いつでも我が家を頼るがよい」
後ろ盾。
それは、陰陽寮の学生である俺にとって、決して小さな意味ではない。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
こうして。
俺はまた一つ、人脈を得た。
そして同時に。
「……今回は危なかったな」
屋敷を出たあと、俺はヨキを抱きながら呟いた。
「もう少しで、俺がやられていた」
「きゅ」
「でも」
ヨキの頭を撫でる。
「危機を乗り越えた分、少しは成長した……と思いたい」
「きゅー」
「お前がいなかったら、危なかったけどな」
ヨキは得意げに胸を張った。
「きゅっ!」
「……はいはい。偉い偉い」
俺は笑った。
陰陽師として。
俺はまだ学生だ。
知らないことも多い。
術も未熟。
経験も足りない。
けれど。
一つずつ怪異を退け。
一つずつ危機を乗り越え。
一つずつ強くなっていけばいい。
そして俺の隣には。
「きゅ」
もふもふの式神、ヨキがいる。
……まあ。
その正体が、俺より遥かに怖い鬼だったことについては。
今は考えないことにしよう。




