第七話 田んぼに現れた椿象(ホオ)
陰陽寮に通うようになって、しばらく経った。
俺――藤原晴蕪は、まだ正式な陰陽師ではない。
陰陽寮の学生として、暦や天文、陰陽道の基礎を学んでいる身だ。
だが。
「晴蕪様! どうか、どうかお助けください!」
なぜか最近、俺のところには怪異退治の依頼が来る。
「……またですか?」
「またでございます!」
今日もそうだった。
屋敷にやってきたのは、都から少し離れたところで田を耕している農民たち。
その顔には、はっきりとした恐怖が浮かんでいる。
「田に、妙なものが出たのです」
「妙なもの?」
「はい」
男が震えながら頷いた。
「昨日の夕暮れ、田の上に……浮いていたのです」
「浮いていた?」
「はい。地面から一丈(約3.03メートル)ほども離れたところに!」
なるほど。
俺は顎に手を当てた。
空中に浮く妖怪。
この時点で、普通の動物という可能性は低そうだ。
「どのような姿でした?」
「それが……」
農民は言葉を詰まらせた。
「人の顔なのです」
「人の顔?」
「はい。ですが、人の顔よりずっと大きい。緑色で……ぬめっとしていて……」
「ぬめっと?」
「それに、目が……」
男の顔から血の気が引く。
「赤い目が、いくつもあったのです」
俺は眉を上げた。
複数の赤い目。
緑色。
空中に浮く。
そして人の顔。
「……それは、かなり妖怪らしいですね」
「やはり妖怪なのですか!?」
「たぶん」
「たぶん!?」
「実際に見てみないことには断定できません」
そう言った瞬間。
「晴蕪様ならば退治できます!」
別の農民が叫んだ。
「そうです!」
「晴蕪様は鬼を祓った陰陽師様だ!」
「まだ学生ですけどね」
「そんなことは関係ありません!」
「ありません!」
「我々には晴蕪様しかおりません!」
……。
俺は少しだけ遠い目をした。
どうしてこうなった。
俺はまだ学生なのだが。
「では、案内してください」
「はい!」
こうして俺は、農民たちとともに田へ向かった。
◇
田に着くと、辺りは静まり返っていた。
稲穂が風に揺れている。
空は薄曇り。
時刻は昼過ぎ。
「ここです」
農民が指を差した。
「昨日は、あそこに……」
「……」
俺は目を細めた。
田の中央。
何もない。
ただ、稲が風に揺れているだけだ。
「本当にここですか?」
「間違いありません」
「では、まず結界を張ります」
「け、結界……!」
農民たちがざわついた。
俺は懐から白い紙を取り出した。
そこに朱を含ませた筆で、簡単な符を書いていく。
陰陽道の学生として習った、怪異を閉じ込めるための結界符だ。
四方に符を置く。
東。
西。
南。
北。
そして中央。
「――――急々如律令」
最後の一枚を地面に置いた。
すると。
――ぞわり。
空気が変わった。
田の周囲を薄い膜のようなものが覆う。
俺自身にも、はっきりと分かった。
「……いるな」
「え?」
農民が聞き返した。
俺は空を見上げた。
「来ます」
次の瞬間。
――ぶううううん。
耳障りな羽音が響いた。
「ひっ!」
「来た!」
「出たぞ!」
田の上空。
何かが現れた。
それは、人の顔だった。
だが。
あまりにも大きい。
縦に一間ほど。
横に四尺ほど。
およそ約1.8mの高さと、1.2mメートルほどの幅。
五角形に近い輪郭をしている。
緑色。
つるりとしていて、髪もない。
まるで巨大な人面のお面だけが、空中に浮かんでいるようだった。
そして――。
「目が……!」
農民が叫んだ。
巨大な緑色の顔。
そこには、赤い目のようなものが無数に開いていた。
十。
二十。
三十。
いや。
数える気にもならないほどだ。
それらが一斉にこちらを向いた。
ぞろり。
ぞろり。
赤い目が動く。
「……気持ち悪いな」
思わず本音が漏れた。
「晴蕪様!?」
「大丈夫です」
俺は懐から呪符を取り出した。
「こいつは、この結界の中から出られません」
巨大な顔が、こちらへ向かって飛んできた。
――ぶううううん!
「来るぞ!」
「晴蕪様!」
俺は一歩も退かなかった。
「陰陽師を舐めるなよ」
呪符を一枚、空へ投げる。
風に乗った紙が、巨大な顔の前で止まった。
「縛!」
呪符が光った。
巨大な顔の動きが止まる。
「な……」
農民たちが息を呑んだ。
「空中で……止まった?」
「す、すごい……」
俺はさらに四枚の呪符を投げた。
東。
西。
南。
北。
四枚の符が、妖怪を囲む。
「四方結界」
呪符が一斉に燃え上がる。
炎ではない。
白い光だった。
妖怪の巨大な顔が、初めて苦しそうに歪んだ。
「――――!」
声にならない叫び。
無数の赤い目が一斉に俺を睨む。
「お前の正体は、椿象」
俺は妖怪を睨み返した。
「ホオ」
椿象。
人面のような姿を持ち、田畑を荒らす怪異。
普通の虫ではない。
ましてや、ただの幻ではない。
こいつは。
本物の妖怪だ。
「だったら、これで終わりだ」
最後の呪符を取り出す。
今まで使ったものとは違う。
俺が自分で書き上げた呪符。
陰陽寮で教えられた術式を基礎に、俺なりに改良したものだ。
「――――――急々如律令!」
呪符を投げた。
白い紙が椿象の額に張り付く。
その瞬間。
――バァンッ!
光が弾けた。
「――――!」
椿象の身体に、無数の亀裂が走る。
緑色の表皮が崩れていく。
赤い目が一つ。
また一つ。
消えていく。
そして最後に。
巨大な顔そのものが、白い光の粒となって――。
さらさらと。
風に溶けるように消滅した。
残ったのは、静かな田んぼだけだった。
「…………」
「…………」
「…………」
農民たちは、誰一人として声を出さなかった。
俺も黙って空を見上げる。
妖怪の気配は、完全に消えていた。
「……終わったな」
そう呟いた瞬間。
背後から。
「きゅ」
という声がした。
「ん?」
振り返る。
そこには。
小さな獣がいた。
白とも灰色ともつかない柔らかな毛。
丸い身体。
短い手足。
ふさふさの尻尾。
そして頭には、小さな角が二本。
「……」
俺と目が合った。
「きゅ」
と鳴いた。
とことこと歩いてくる。
「……お前、どこから来た?」
「きゅう」
俺の足元まで来ると。
ぺた。
と、俺の足に身体をくっつけた。
「……懐いた?」
しゃがんで手を伸ばす。
もふっ。
「おお……」
柔らかい。
ものすごく柔らかい。
俺が頭を撫でると、そいつは嬉しそうに目を細めた。
「きゅるる……」
「かわいいな、お前」
「きゅっ!」
尻尾がぶんぶん振られる。
完全に懐いている。
「……式神?」
俺は首を傾げた。
術式を感じる。
妖気もある。
どうやら、さっきの椿象を祓ったことで、何かが呼び寄せられたらしい。
俺が抱き上げる。
もふっ。
「……かわいい」
「晴蕪様!」
突然、農民の一人が叫んだ。
「離れてください!」
「え?」
「そ、それは……!」
農民たちが一斉に後ずさった。
「鬼です!」
「鬼の幼体だ!」
「なにっ!?」
俺は腕の中を見る。
もふもふ。
つぶらな瞳。
小さな角。
「……これが?」
「恐ろしい鬼の子供です!」
「今の妖怪より恐ろしい!」
「そんなわけあるか!」
俺が言い返すと。
「きゅ?」
腕の中の式神が首を傾げた。
「ほら」
俺はその頭を撫でる。
「こんなに可愛いだろ」
「可愛い……?」
農民たちが互いの顔を見る。
「……晴蕪様には、あれが可愛く見えるのか?」
「鬼の幼体が勝手に従う……だと?」
「しかも抱いておられる……」
「なんという御力……」
「違うからな?」
俺は念のため釘を刺しておく。
「こいつは俺の式神です。少なくとも、今のところ人を襲う気配はありません」
「しかし!」
「大丈夫です」
「……」
農民たちはまだ怯えている。
だが。
次の瞬間。
一人の老人が、俺の前にひざまずいた。
「晴蕪様……」
「え?」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げる。
「我々の田をお救いくださいました!」
「いや、そこまで大したことでは――」
「大したことではない!?」
別の農民が叫んだ。
「田の上に現れた妖怪を、たった一人で退治されたのですぞ!」
「しかも結界を張り、呪符を自在に操り……」
「まるで神仏の御使いだ!」
「この方こそ、真の陰陽師!」
「まだ学生だけど」
「学生でこれほどなのですか!?」
「……」
話がどんどん大きくなっていく。
「我々の田を守ってくださった!」
「今年の米が無事に実ります!」
「晴蕪様は田の神がお遣わしになったお方だ!」
「いや、俺は人間です」
「なんと謙虚な!」
「そういう意味じゃない」
完全に話が噛み合っていない。
そして。
「どうか、これをお納めください!」
差し出されたのは、米俵だった。
「……いいんですか?」
「もちろんです!」
「我々にとっては命より大切なものを救っていただいたのです!」
「そこまで言われると……」
俺は困りながらも受け取った。
すると。
腕の中の式神が、米俵を見た。
「きゅ」
「お前も欲しいのか?」
「きゅっ!」
尻尾が激しく振られる。
「……食べるのか?」
「きゅー!」
どうやら食べるらしい。
「仕方ないな」
俺は小さく笑った。
こうして。
田を荒らしていた妖怪――椿象は退治された。
そして俺の隣には。
いつの間にか、もふもふの小さな式神が一匹増えていた。
ただし。
俺はまだ知らなかった。
この式神が後に陰陽寮を震撼させることになるとは。
そして。
「鬼の幼体が勝手に従う……だと?」
その日のうちに、この噂が都へ広がってしまうことも。
もちろん俺は。
そんな大事になるとは、思ってもいなかった。




