第四話 妖怪から助けた少女は、関白家の姫君だった
その夜。
陰陽寮での仕事を終えた俺は、牛車の轍が残る夜道を一人歩いていた。
平安京の夜は暗い。
現代のような街灯などない。
屋敷から漏れる灯火と、時折見える松明だけが頼りだ。
だからこそ。
俺は、その異変にすぐ気づいた。
「……誰かいる?」
道の先。
月明かりの下に、人影があった。
薄い水色の衣をまとった少女。
こんな夜更けに、一人でいる。
少女が俺を見て警戒したのか立ち去ろうと身をひるがえした。
しかも――。
「待ってください!」
俺が声をかけた瞬間。
少女の後ろから、何かが現れた。
黒い。
人の形をしている。
だが、人ではない。
異様に長い腕。
地面につきそうなほど伸びた髪。
そして、月明かりの中で光る二つの目。
「……妖怪?」
俺が呟く。
少女が振り返った。
「ひっ……!」
その顔は、驚くほど美しかった。
まだ幼さの残る顔立ち。
透き通るような白い肌。
長い黒髪。
だが、その美しい顔は恐怖に歪んでいた。
「助けて……!」
妖怪が少女へ手を伸ばす。
俺は反射的に前へ出た。
「そこから離れて!」
「え……?」
少女が俺を見る。
次の瞬間。
妖怪の腕が俺へ振り下ろされた。
――速い。
だが。
俺の身体は、それより先に動いていた。
「来るな!」
右手を突き出す。
そして、体の奥にあるものを解放する。
以前から感じていた。
自分の中にある、妙な力。
陰陽寮では「呪力」と呼ばれている。
俺自身はまだ、それが何なのかよく分かっていない。
ただ――。
危険が迫ったとき。
こいつは勝手に動く。
「――退け!」
俺の掌から、何かが弾けた。
青白い光。
轟音。
地面に円形の紋が走った。
妖怪の腕が、その紋に触れた瞬間。
――バシュッ!
「ギィィィィィッ!」
妖怪が悲鳴を上げた。
黒い腕が煙を上げる。
「効いた!」
俺は驚いた。
だが妖怪は逃げない。
むしろ怒り狂ったように、巨大な口を開いた。
「グルルル……!」
そして、こちらへ飛びかかってくる。
「くそっ!」
俺は両手を合わせた。
陰陽寮で習ったばかりの印。
まだ完全には覚えていない。
だからこそ。
――力任せだ。
「xxxxxxxx急々如律令!」
叫んだ瞬間。
周囲の空気が震えた。
俺の足元から、青白い光が一気に広がる。
妖怪の身体を包み込む。
「ギャアアアアアッ!」
妖怪が苦しみ始めた。
その姿が崩れていく。
黒い霧になる。
そして――。
夜の闇へ消えた。
「……終わった?」
俺は息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
振り返る。
少女は、呆然と俺を見ていた。
「……」
「怪我は?」
「……ありません」
小さな声だった。
「そうですか。よかった」
俺は安心して笑った。
「もう大丈夫ですよ」
少女は答えなかった。
ただ、じっと俺を見ている。
「?」
「……あなたは」
「はい?」
「今の……」
「ええと」
俺は頭を掻いた。
「陰陽寮で習った術です」
「……陰陽師?」
「学生ですけど」
少女の目が大きく開いた。
「陰陽師……」
「はい」
「あなたが……私を……」
「たまたま通りかかっただけです」
俺はそう答えた。
少女は黙った。
そして。
頬が、ほんのり赤くなった。
「……ありがとうございます」
「いえ」
「本当に……ありがとうございました」
「気にしないでください」
俺は笑った。
すると少女は、ますます顔を赤くした。
なぜだろう。
具合でも悪いのだろうか。
「顔が赤いですよ?」
「……!」
少女が慌てて顔を伏せた。
「何でもありません!」
「そうですか?」
「はい!」
そして小さく呟く。
「……困りました」
「何がです?」
「何でもありません……」
俺には意味が分からなかった。
その後。
迎えの牛車がやってきた。
「姫様!」
牛車から降りてきた女房が、少女へ駆け寄った。
「ご無事でございましたか!」
「ええ」
「何ということを……もし姫様に何かあれば、我らは……」
女房が俺を見る。
「こちらの方が助けてくださったのです」
「まあ……」
女房が驚く。
そして深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いえ、当然のことをしただけです」
俺がそう言うと。
女房は不思議そうな顔をした。
「当然……?」
「困っている人がいたので」
「……」
少女が俺を見た。
その瞳には、先ほどまでの恐怖とは違うものが宿っている。
熱。
期待。
そして――。
憧れ。
俺は気づかなかった。
少女が俺のことを、ずっと見つめていることに。
牛車が去っていく。
最後に御簾の隙間から、少女の顔が覗いた。
目が合う。
少女は微笑んだ。
そして小さく口を動かした。
「また……お会いしたいです」
俺は聞き取れなかった。
ただ、軽く頭を下げた。
――翌朝。
陰陽寮に呼び出された俺は、教官の前に立っていた。
「藤原晴蕪」
「はい」
「昨夜、どこへ行っていた?」
「帰宅途中に、妖怪に襲われていた女性を助けました」
「そうか」
教官は深々とため息をついた。
「……お前は本当に、騒ぎを起こすな」
「すみません」
「謝ることではない」
「?」
教官が俺を見る。
「その女性が誰だったか分かっているか?」
「いえ」
「関白さまの姫君だ」
「……」
「藤原家の姫君だぞ」
「……え?」
俺は固まった。
「お前は昨夜――」
教官が頭を抱えた。
「関白家の姫君を妖怪から救ったのだ」
「……」
俺は嫌な予感がした。
「それで?」
「それで?」
教官がため息をつく。
「姫君が、お前に会いたいそうだ」
「……え?」
「しかも」
教官はさらに困った顔をした。
「昨夜からずっと、お前の話ばかりしているらしい」
「……」
「『あの方はどこの家の御子なのか』」
教官が指を折る。
「『またお会いできるか』」
二本目。
「『あの術は何だったのか』」
三本目。
「そして最後に――」
教官が俺を見る。
「『あの方のお姿を、もう一度拝見したい』」
「……」
俺は思わず天井を見上げた。
いや。
待ってほしい。
昨夜会ったばかりだ。
名前すら知らない。
それなのに――。
「先生」
「何だ」
「これって……」
「何だ?」
「もしかして……」
俺は恐る恐る尋ねた。
「一目惚れ……とかですか?」
教官はしばらく黙っていた。
そして。
「……そういうことに、なるのだろうな」
「えぇ……」
俺は頭を抱えた。
陰陽師になりたくて陰陽寮に入っただけなのに。
呪力が強すぎて測定器を壊し。
妖怪を退治したと思ったら。
今度は――。
関白家の姫君に、一目惚れされた。
俺の平安人生。
どうやら、思っていたよりずっと波乱万丈らしい。




