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第五話 関白家の御曹司

「――お前が、あの夜の陰陽師か」


 陰陽寮からの帰り道。


 突然、前を塞がれた。


 牛車から降りてきたのは、十八、九歳ほどの青年だった。


 見るからに上等な衣。


 従者を何人も連れている。


 そして何より――。


 周囲の者たちが、彼の姿を見た途端に道を空けている。


「どちら様でしょうか?」


 俺が尋ねると、青年は鼻で笑った。


「知らぬのか」


「申し訳ありません」


「俺は藤原時平(ふじわらのときひら)」


 名乗られた瞬間、従者たちが頭を下げた。


「関白さまの御長男であらせられるぞ」


「ああ」


 なるほど。


 関白の長男。


 つまり、この国でも最高級の家柄の一人というわけだ。


 俺は軽く頭を下げた。


「これは失礼いたしました」


「ふん」


 青年は俺を頭の先から足元まで眺めた。


 まるで、道端の犬でも見るような目だった。


「お前が妹を助けたという陰陽師か」


「はい」


「……これが?」


「……」


 青年は隣の従者を見る。


「どう思う?」


「はっ?」


「妹を救ったという男だ」


「はあ……」


 従者は困った顔をした。


 青年は鼻で笑う。


「随分と普通だな」


「……」


「もっとこう、恐ろしい鬼を一撃で屠(ほふ)る化け物でも想像していたぞ」


「実際に妖怪を退治したのですが」


 俺が言うと。


 青年は吹き出した。


「妖怪?」


「はい」


「お前が?」


「はい」


「ふっ……」


 肩を震わせる。


「これは面白い」


「何がでしょうか?」


「妹は随分と大仰(おおぎょう)な男に命を救われたらしい」


 青年は俺を指差した。


「お前、自分が何者なのか分かっているか?」


「陰陽寮の学生です」


「そうだ」


 青年は満足そうに頷いた。


「ただの学生だ」


 その言葉を、わざと強調した。


「まだ何の官職もない。何の実績もない。何の名声もない」


「……」


「そんなお前が、関白家の姫君を助けたからといって――」


 青年は俺の肩を軽く叩いた。


「自分まで関白家の一員になったような気分になるなよ」


 従者たちが小さく笑った。


 俺の奥歯が噛み合う。


「妹がずいぶんとお前を褒めていた」


「……そうですか」


「命を救ってくれた、見事な術だった、礼を言いたい――とな」


「それなら何よりです」


「だがな」


 青年の顔から笑みが消えた。


「勘違いするなよ」


「……何をでしょうか?」


「妹に近づくな」


 いきなりだった。


「妹は関白家の姫だ」


「存じています」


「お前のような陰陽寮の学生が、気安く話しかけてよい相手ではない」


「……」


「一度助けたからといって、自分が特別な存在になったと思うな」


 青年は俺の衣を見た。


「その衣も、随分と質素だな」


「学生ですから」


「そうだろうな」


 青年は笑った。


「関白家の姫の隣に立つには、あまりにも粗末だ」


「……」


「妹の隣にお前が立ったら、まるで――」


 青年が俺の姿を上から下まで眺める。


「供(とも)の雑色にしか見えぬだろう」


 従者から笑いが漏れた。


「……」


 俺は黙った。


「何だ?」


 青年が顔を覗き込んでくる。


「怒ったのか?」


「いいえ」


「そうか?」


「はい」


「なら笑え」


「……」


「関白家の御曹司に笑えと言われたのだ。笑えぬのか?」


 俺は口元だけを動かした。


「……はは」


「それでいい」


 青年は満足げに笑った。


「陰陽師というのは、術だけではなく愛想も必要らしいな」


 俺は拳を握った。


 ――こいつ。


 本当に嫌な奴だ。


「私はそのようなつもりは――」


「どうだかな」


 青年は俺の言葉を遮った。


「妹はお前に会いたいと言っているらしい」


「……」


「身分もわきまえず、余計な期待を持たれては困る」


「期待など――」


「していない?」


「はい」


「ならば簡単だ」


 青年は笑った。


「二度と妹の前に姿を見せるな」


「……」


「お前ごときが、妹の記憶に残ることすら不愉快だ」


 胸の奥が、ずきりと痛んだ。


 だが。


 まだ耐えられる。


 俺は何も言わない。


「それに」


 青年はさらに続けた。


「陰陽師というのも、ずいぶん便利な身分だな」


「……?」


「怪しい術を使って、貴族を怖がらせれば、さぞ偉くなった気分だろう」


「私は――」


「鬼を退治した?」


 青年が笑う。


「そんなもの、たまたま当て推量に出した術が効いただろう」


「……」


「本当に腕があるなら、俺の前で何かやってみろ」


「ここでですか?」


「ああ」


 青年が両腕を広げる。


「鬼でも呼んでみろ」


「……」


「できないだろう?」


 にやにやと笑う。


「所詮、陰陽寮の学生だ」


 ――その瞬間。


 俺の中で、何かが完全に切れた。


 だが。


 呪力は出さない。


 術も使わない。


 ここでやれば、ただの馬鹿だ。


 俺は静かに頭を下げた。


「承知しました」


「お前」


「はい」


「何だ、その返事は」


「何か問題が?」


「妹を助けた程度で、俺と対等に話しているような気がしてな」


 青年は鼻で笑った。


「陰陽師というのは、ずいぶんと偉くなれるものらしい」


「……」


「お前のような者が、関白家の者と同じ目線で立つなど――」


 青年が俺の横を通り過ぎながら、耳元で囁いた。


「身の程を知れ」


 そして、最後に俺の肩を軽く押した。


 ほんのわずかな力だった。


 だが。


 それで十分だった。


「妹を助けた褒美でも欲しいのか?」


「……いいえ」


「ならば消えろ」


「……承知しました」


「二度と妹に近づくな」


「はい」


「お前のような者が、妹の夫になるなど夢にも思うなよ」


「……」


 俺は黙った。


「聞こえたか?」


「はい」


「ならば――」


 青年は笑った。


「身の程をわきまえろ」


 牛車へ戻っていく。


 従者たちも続く。


 最後の一人が、俺を見て笑った。


 やがて牛車は遠ざかっていった。


 俺は、その場に立ち尽くしていた。


 拳を握ったまま。


「……」


 怒っている。


 ものすごく怒っている。


 だが、今は何もできない。


 俺はまだ学生。


 相手は関白家の長男。


 権力の差は、あまりにも大きい。


「……身の程、ね」


 俺は呟いた。


 そして歩き出す。


 陰陽寮へ戻る道を。


 歩きながら、何度も拳を握った。


 供(とも)の雑色。


 粗末な衣。


 ただの学生。


 何の実績もない。


 たまたま術が効いただけ。


 妹の記憶に残ることすら不愉快。


 お前ごとき。


 身の程を知れ。


「……」


 思い出すたびに腹が立つ。


 そして最後の一言。


 ――妹の夫になるなど夢にも思うな。


「……誰がなるか」


 俺は吐き捨てた。


 俺だって、別にあの姫君と結婚したいなどとは言っていない。


 ……言っていないが。


 あの男にだけは、言われたくなかった。


 そのことが、余計に腹立たしい。


 陰陽寮へ戻る。


 机に座る。


 教本を開く。


 だが、文字が頭に入ってこない。


「……くそ」


 俺は筆を置いた。


 そして、深く息を吐く。


 ――陰陽師というのは、呪力だけが強ければいいのだろうか?


 違う。


 陰陽師には知識が必要だ。


 天文を読み。


 暦を知り。


 卜占を学び。


 呪術を修め。


 そして何より。


 朝廷に必要とされる人間にならなければならない。


 ならば。


 俺はもっと強くなろう。


 もっと学ぼう。


 誰にも文句を言わせないくらい。


 関白家の威光など持ち出さなくても、俺自身の名前だけで通るくらいに。


「……覚えておけよ」


 もちろん。


 本人には聞こえていない。


 遠ざかっていく牛車を思い出しながら、俺は小さく呟いた。


「いつか必ず――」


 そこで言葉を止めた。


 今はまだ、その時ではない。


 だから怒りを飲み込む。


 悔しさも。


 屈辱も。


 全部、胸の奥へ押し込む。


 そして陰陽寮へ戻った。


 その日の夜。


 俺はいつもの倍、勉強した。


 翌朝は誰より早く起きた。


 昼には術式の練習をした。


 夜には天文の書を読み込んだ。


 そして。


 また翌日。


 さらにその翌日。


 俺は少しずつ強くなっていった。


 あの日、俺を見下した男のことを。


 決して忘れないために。


 ――このとき俺は知らなかった。


 数週間後。


 関白家が大騒ぎになる事件が起きたとき。


 朝廷から呼び出された俺が、その男と再会することになるとは。


 そして。


 そのときにはもう。


 俺のほうが、彼に頭を下げる必要などなくなっていることを。



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