第三話 陰陽寮の新人、なんかやっちゃいました
陰陽寮に入って、五日目。
十五歳の俺はまだ、自分が特別な人間だとは思っていなかった。
前世の知識がある。
それだけだ。
少しばかり物覚えが良くて、文字も読める。
確かに六歳のころは多少陰陽道の書物も読んだ。
東対に現れた白い人影を呪文で追い払った。
あの時の黒石は大切にとってある。
ある場所に保管してる。
だが、それ以降はいたって平穏な日々。
勉強もせず遊び惚けていた。
陰陽師として特別な才能があるとは思っていなかった。
むしろ――。
「晴蕪、お前は本当に何も知らんな」
「すみません」
同じ年頃の学生に呆れられるくらいだ。
陰陽道の基本用語すら、俺にとっては初めて聞くものばかり。
天文。
暦。
卜筮。
方位。
禁忌。
聞いたことのある言葉もあるが、意味は現代とは違う。
だから俺は、毎日必死に覚えていた。
そんなある日のこと。
「本日は実習を行う」
教官(*1)が教室に入ってきた。
「内容は簡単だ」
教壇の上に、細長い木箱が置かれる。
「この箱の中にある札を、一枚だけ選べ」
「札?」
「そうだ」
教官が蓋を開ける。
中には、白い紙札が何十枚も入っていた。
「ただし、目で選んではならん」
「どうするのです?」
「手をかざして、気の流れを読む」
なるほど。
要するに、霊的な感知能力の訓練らしい。
「最も強く感じる札を一枚取れ」
学生たちが次々と挑戦していく。
「これです」
「違う」
「こちらかと」
「それも違う」
なかなか難しいらしい。
俺の番になった。
「藤原晴蕪」
「はい」
「やってみなさい」
「分かりました」
俺は箱の前に立った。
手をかざす。
……。
……何も感じない。
まあ、当然だ。
「先生」
「何だ?」
「よく分かりません」
「最初はそんなものだ」
教官は優しく言った。
「目を閉じてみなさい」
「はい」
俺は目を閉じた。
そして、箱の中へ意識を集中する。
すると。
――あ。
一枚だけ。
妙に気になる札があった。
理由は分からない。
ただ、
「これだ」
と思った。
俺は札を一枚抜き取った。
「これでいいですか?」
教官が札を見る。
「……」
「先生?」
教官の顔が固まっていた。
「……正解だ」
「そうですか」
俺はほっとした。
よかった。
ちゃんとできた。
しかし。
「次」
教官が別の学生を指名した。
「同じことをやってみろ」
学生が札を選ぶ。
「これです」
違った。
もう一度。
また違った。
三度目でようやく正解。
俺は首を傾げた。
そんなに難しいものなのだろうか。
「晴蕪」
「はい?」
「もう一度やってみろ」
「はい」
俺は箱に手をかざす。
「これ」
抜く。
正解。
「……」
教官が黙る。
「もう一度」
「はい」
正解。
「もう一度」
「はい」
正解。
教室が静かになった。
「……」
俺は教官を見る。
「何か?」
「いや……」
教官が額を押さえた。
「もういい」
「はい?」
「もうやらなくていい」
「分かりました」
席に戻ろうとした、そのとき。
「待て」
「はい?」
「最後に一つ」
教官が箱の中から札を全部取り出した。
そして俺の前に並べた。
「この中に、一枚だけ私の呪力を込めた札がある」
「はい」
「それを探せ」
「分かりました」
俺は見た。
普通に見ればすぐ分かる。
「これです」
俺は一枚を指差した。
「……」
教官が固まった。
「どうしました?」
「何でもない」
教官は札を確認した。
「……正解だ」
教室がざわついた。
だが俺には、その意味が分からない。
「皆さんも簡単にできるのでは?」
その瞬間。
教室が静まり返った。
「……」
「……」
「……?」
俺は周囲を見回した。
何だ?
みんな、どうしてそんな顔をしている?
すると一人の学生が、おそるおそる口を開いた。
「晴蕪……」
「はい」
「それ、俺たちには見えないんだ」
「え?」
「札は全部同じに見える」
「……」
俺は札を見た。
確かに一枚だけ、紙から緑色の煙が立ち上っているところが違う。
俺には普通に分かる。
「でも、よく見れば……」
「見えない」
別の学生が言った。
「俺には何も違って見えない」
「僕も」
「俺もだ」
ざわざわと声が広がっていく。
教官が俺のところまで来た。
「晴蕪」
「はい」
「お前、札を見て選んだのか?」
「いいえ」
「では、どうやった?」
「……何となく」
「何となく?」
「はい」
教官が黙り込んだ。
そして、木箱を見た。
次に俺を見る。
「もう一度、やってみろ」
「はい」
俺は箱に手をかざした。
目を閉じる。
――これ。
一枚を取る。
教官が確認する。
「……正解」
また。
「これ」
「正解」
また。
「これです」
「正解」
五回。
十回。
二十回。
全部正解した。
教室には、もう誰も喋る者はいなかった。
俺だけが困惑していた。
「……先生」
「何だ」
「これって、そんなに難しいんですか?」
教官はしばらく俺を見つめた。
「普通なら、一度当たれば上出来だ」
「そうなんですか」
「十回連続で当てる者など、私は見たことがない」
「……」
「しかも、お前は」
教官が箱を指差した。
「札に触れてすらいない」
俺は自分の手を見る。
「……そうですね」
「何を感じている?」
「え?」
「札を選ぶとき、何を感じている?」
俺は少し考えた。
「……こっちだな、と」
「それだけか?」
「はい」
教官は頭を抱えた。
「……そうか」
「何か問題でも?」
「いや」
教官はため息をついた。
「問題があるとすれば――」
その言葉を遮るように。
教室の隅から声がした。
「先生!」
「何だ」
「水盤が!」
「水盤?」
俺たちは一斉に振り向いた。
教室の隅には、実習用の浅い水盤が置かれている。
その水面が――。
揺れていた。
誰も触れていない。
風もない。
それなのに。
ちゃぷ。
ちゃぷ。
水面が規則正しく波打っている。
「……何だ?」
俺が近づく。
すると、水面がさらに大きく揺れ始めた。
「晴蕪、止まれ!」
「え?」
教官が叫ぶ。
だが俺はもう水盤の前に立っていた。
水面の中央に、黒い墨を一滴落とす。
すると――。
墨が勝手に一方向へ流れ始めた。
「これは……」
教官の顔色が変わった。
「北東……」
「何かあるんですか?」
「……鬼門だ」
「鬼門?」
「お前が近づいた途端、方位を示した」
「……」
俺は水盤を見る。
墨は、ぴたりと北東を指していた。
教官が震える声で言った。
「これは単なる気の感応ではない」
「はい?」
「お前は……」
教官が言葉を失う。
俺は首を傾げた。
「先生?」
「……何でもない」
「そうですか」
俺は席に戻った。
周囲の学生たちが、道を開ける。
なぜか誰も俺の隣に座ろうとしない。
「……?」
その日の授業が終わった。
俺は教室を出ようとした。
すると後ろから声がした。
「晴蕪」
「はい?」
「お前、自分が何をやったのか分かっているのか?」
「え?」
俺は振り返った。
「普通の実習ですよね?」
教官は遠い目をした。
「……そうだな」
「?」
「お前にとっては、普通なのだろう」
その言葉の意味を。
俺は、まだ理解していなかった。
――この翌日。
俺の名前は、陰陽寮の上層部にまで届くことになる。
理由は単純だった。
『入寮したばかりの学生が、陰陽寮の秘伝の感応術を全問正解した』
という噂が流れたからだ。
そして俺は、その日の夕食を食べながら思った。
……俺。
なんかやっちゃいました?
(*1:陰陽博士のこと)




