第九話 送り主の本当の願い
神殿を出てから、私たちは仕立て屋の前を通った。
ドナさんの姉が、店の窓辺で衣装の裾を合わせていた。白い布に、麦の穂を縫い取っている。奥には同じ形の衣装が何着も下がっていた。
エルナさんが、足を止めた。
「これを、縫っていたんですね」
私たちに気づいたドナさんが、店の奥から出てきた。
今日は右手を布で支えている。
「ちゃんと診てもらってきたわよ。しばらく、私の仕事は口を動かすほうにする」
「それは、前からじゃない?」
窓辺の姉が言った。
ドナさんが振り返り、二人で笑った。
私は店先の布を覗いた。金色の糸で縫った麦は、近くで見ると、いくつもの短い縫い目でできている。
エルナさんは、その一つをじっと見ていた。
「重いんでしょうか」
「着る人によるわね。子ども用は糸の量を減らすの。でも、遠くから見たら同じに見えるように」
ドナさんが、別の衣装を示した。
よく見ると、縁取りの幅が少し違った。
「気づきませんでした」
エルナさんが言った。
「毎年、隣に立つ人たちが着ているのに」
「気づかれないように作るところも、あるのよ」
ドナさんは、得意そうだった。
私はその顔を見て、少し安心した。
腕を休めても、この人の仕事が丸ごとなくなったわけではない。
若い職人が奥から出てきて、裾の長さを確かめてもらっていた。ドナさんは手を出さず、床からどのくらい離すかを、具体的に言う。
そのやり取りを、エルナさんは熱心に聞いた。
私は店の角にある、小さな椅子を借りてきた。
「見ているなら、こちらへ」
彼女は少し恥ずかしそうに座った。
職人が針を進める音は、ほとんど聞こえない。布を動かす音だけが、時々する。
エルナさんが、私のほうへ顔を寄せた。
「リゼさんも、最初から、今のように糸を扱えたんですか」
「まさか。初めて一人で触ったときは、家中の匙を窓に貼りつけました」
「窓に?」
「落とさないように持ち主へ戻る匙、だったんです。でも、どこへ戻すのかを間違えたらしくて」
エルナさんが私を見た。
笑いたいのを、我慢している顔だった。
「剥がれたんですか」
「祖母が外しました。私は、そのあいだ、窓に手を添える係。半日くらい、立ってました」
「半日も?」
「嘘です。一時間くらい。子どもには、半日みたいに思えました」
彼女がとうとう笑った。
私も、昔の窓いっぱいに銀色が並んでいた景色を思い出して、笑った。
「それでも、続けたくなったんですね」
「はい。ほどくところが、面白かったので」
私は針を動かす職人を見た。
布の端へ、金の線が少しずつ増えていく。
「何をしたら変わるのか、考えて、やってみる。うまくいったときには、自分の手でわかった気がするんです。わからないまま、名前だけ覚えるより」
そこまで言って、話しすぎたと思った。
エルナさんは、まだ私を見ていた。
「そういう顔で、お仕事をしているんですね」
「そういう顔?」
「面白い、と考えている顔です」
私は視線を逸らした。
好きな仕事の話をしているだけなのに、仕事ぶりそのものを見られたときより恥ずかしかった。
ドナさんが、奥から端切れの入った籠を持ってきた。
「リゼ、店で使う布、足りてる? 最近、預かり物が増えたなら、包むものも要るでしょう」
「譲ってもらえるなら、助かります」
「大きさは揃わないけどね」
私は何枚か選んだ。
金属を包むために厚いものを、色のつく品には染めていない布を。
エルナさんも籠を覗いた。
薄い青の布へ、手が伸びかけて止まる。
「その色、好きなんですか」
私が聞くと、彼女はうなずいた。
「はい。でも、包む用途に合うかは、わからなくて」
「薄いので、金具には向かないです。窓に掛けるなら使えそうですけど」
ドナさんが、その布を広げた。
「端の糸がつれてるのよ。気にならないなら、これも持っていって」
私は、そのまま受け取りかけて、エルナさんを見た。
客室の窓へ布を足すと言ったことを思い出したのだ。
「窓に、使いますか」
彼女の顔が上がった。
「いいんですか」
「眩しい朝のために。濃い色だと暗くなりすぎるので、このくらいなら」
エルナさんは、布の透けるところを光へ向けた。
小さな傷を、指でそっとなぞる。
「この色が、いいです」
私はうなずき、ほかの布とは分けて畳んだ。
店へ戻ってから、窓に吊るす紐を用意する。
休む場所の何かを、その人が自分で選ぶ。
それだけで、貸している部屋が、少し違う場所に見え始めた。
夕方、ドナさんが姪を連れて店に来た。
背の高い、私よりいくつか年下の女の子だった。ドナさんに似た太い眉が、今は真ん中へ寄っている。
「私が、選んだんです」
私が話しかけるより先に、彼女は言った。
「母さんの分と、おばさんの分。二人とも、夜遅くまで仕事してたから。少しでも楽になるって、神殿で」
ドナさんが彼女の肩へ手を置いた。
「だから、あんたに怒ってるわけじゃないってば」
「でも」
私は預かっていた箱を出した。
白い革の腕留めが、綺麗に収まっている。まだ呪いは抜いていない。
「これを買うために、働いたんですか」
姪はうなずいた。
「夏の間、薬草の仕分けを手伝って。安いほうの品だったけど」
「箱の内側に、紙が挟まっていました。開けてしまって、すみません」
彼女の頬が赤くなった。
紙には、二人で春の市へ行こう、と書いてあった。
ドナさんが知らなかったらしく、姪を見た。
「あの市? あんた、行きたいって言ってたものね」
「今年は、仕事が忙しくて行けなかったから」
私は留め金を指さした。
「石を外せば、普通の腕留めにはできます。力はなくなりますけど、革はいいものですし、留め金も丈夫です」
「売れなくなりますか」
「値段は下がります」
姪が俯いた。
私はその顔を見ながら、言葉を選んだ。
「でも、ドナさんはもう、お金のために預ける必要はないんですよね」
「ないわよ」
ドナさんが、さっさと答えた。
「手が治ったら、普通に使いたいの。姉の分も、見てもらえる?」
「同じように確かめます。石は別に保管して、頒布した人にも、どういう品だったか説明してもらいましょう」
私は預かり票をもう一枚取った。
エルナさんは横で、二人の話を聞いていた。何かを代表して謝り始めることも、善意だったのだからと言いくるめることもなかった。
姪が、声を絞り出した。
「おばさんたちに、ずっと働いてほしかったわけじゃないんです」
「うん」
私はうなずいた。
「一緒に、市へ行きたかったんですよね」
彼女は顔を上げた。
ドナさんが小さな紙を受け取り、箱の蓋へ大事そうに挟んだ。
その日の腕留めは、私の店では売れなかった。
それでよかったと思った。
閉店後、エルナさんは手帳に、ドナさんたちの話を書き留めていた。
お母さんにも症状があったこと。贈り物を選ぶとき、身体を休める必要があるとは説明されなかったこと。娘は春の市へ、一緒に出かけたかったこと。
私は最後の一行を見た。
「そこも、記録するんですか」
「はい」
彼女は顔を上げなかった。
「何のために、この品を買ったのか。そこが残っていないと、働く時間を増やしたかったのだと思われそうで」
作業台の灯りが、睫毛の影を頬に落としていた。
私は口を開きかけ、閉じた。
どう言えばいいのか、わからなかったのだ。
仕事の役に立ったとか、よい記録だとか、そういうことだけを言いたかったわけではない。
この人が、そこまで聞いていることが嬉しかった。
私は湯を沸かすため、台所へ行った。
「お茶、飲んでから帰りませんか」
「今日は、もう検査は」
「終わってます。お茶だけです」
返事が遅れたので、振り返った。
エルナさんが、鉛筆を置いていた。
「はい。いただきます」
私はカップを二つ出した。
イルマさんは表で御者と帰りの時刻を相談している。戻ったら、もう一つ。
茶葉を落とす。今日は、ひと匙をけちらなかった。
エルナさんが手帳を閉じて、隣までやってくる。
「お湯を注ぐくらいなら、できます」
「では、そちらを」
渡したカップを彼女が受け取る。
指が触れたわけでもないのに、さっきまで紙と銀ばかり見ていた目が、彼女の手元から離れなかった。




