第八話 宿泊に隠されたもの
登場人物紹介
■ダン
神殿の設備係を務める若い神官。
蓄魔石や結界の設備に詳しく、資料庫の手伝いをしていたところでリゼと出会う。
知らないことを知ったふりで済ませず、必要な記録や担当者を探してくれる協力者。リゼの技術と神殿の設備を結びつけ、指輪の調査を支える。
腕留めについて、神殿の保管記録を調べる許可は、マレイさんから取ってもらった。
翌朝、私はエルナさんと資料庫へ向かった。
昨夜の彼女は、新しく空けたベッドで休んでいた。朝に指輪を確かめると、枝はまた伸びている。短く取り除く処置をしたあと、イルマさんの馬車で来たのだった。
私たちは仕事のために神殿へ行く。
そう考えると、昨日までとは違う歩き方ができた。
資料庫には、紙と革と、少し湿った石の匂いがした。棚の高さは背の倍以上ある。私は昔、下の段ばかり担当していた。高価な品物の記録に触れるのは、もっと上の役職の人だった。
「腕留めの石に、この番号がありました」
預かり票の写しを見せると、当番の神官が奥から台帳を持ってきた。
袖に青い汚れがついている若い男性だった。抱えた本が重そうで、私は反対側を支えた。
「ありがとうございます。私、設備係のダンです。今日はここの手伝いで」
「リゼです」
「名前は聞いたことがあります」
何についてかは、聞かなかった。
彼は机に本を載せ、留め紐を解いた。
エルナさんが番号を読み上げる。ダンさんはすぐに指を置いた。
「去年の秋に頒布されています。働く人へ贈る祝福品、第三組。大きな石から分けたものですね」
「大きな石?」
「同じ働きを小さな石へ分けて、腕留めや指輪に入れます。ほら、ここに材料の受け入れ番号が」
私はその欄を見た。
消えかけた字の横に、別の番号が書き加えられていた。
エルナさんの指が頁の端を押さえた。
「この字、書き直してありますね」
「読みにくかったのでしょう。古い品は、移し替えのたびに番号が変わりますから」
ダンさんは奥の棚へ向かった。
戻ってきたときには、今度は薄い帳面を持っていた。
私は立ち上がり、渡された帳面を開いた。
見覚えのある分類の名前があった。
不休。
眠らなくても働ける、とされている品物につく名前だ。私が報告書を書いた腕輪も、その分類だった。
胸の奥が冷たくなる。
エルナさんは頁を覗き込んでいたが、私を急かさなかった。
「同じ分類です。でも、同じ働きかどうかは、現物を比べないと」
私は言った。
ダンさんが、石の番号の横を指した。
「当時の試験片なら、地下に残っているかもしれません」
「見られますか」
「取扱いには許可が要ります。私から保管係へ聞きます。ただ、見つかるとは限りませんよ。古い倉庫、片づいてないので」
「わかります」
すぐに返事をしたら、エルナさんが私のほうを見て、口元を押さえた。
昨日、廊下の箱を見せたばかりだった。
地下へ下りる途中、薄暗い廊下の先から、低い響きが聞こえた。
水車に似ているけれど、川からは遠い。
「あの音は?」
尋ねると、ダンさんが階段の脇にある扉を示した。
「結界の予備の石です。今日、目を覚まさせています」
「予備があるんですか」
「もちろん。祭事で流れを変えるときに使います。聖女様のお力が強いので、普段は眠らせているんです」
私はエルナさんを見た。
彼女も扉を見ていた。
「私は、その中に入ったことはありません」
「後で、係の許可を取りましょうか」
ダンさんは軽く言った。
私たちはうなずいた。
その扉の向こうにあるものが、いつか彼女の指を自由にできるかもしれない。そこまでは、まだ思わなかった。
ただ、知らないことが、今まで思っていたよりずっと近くにあるのだと感じた。
試験片は見つかった。
箱の札が逆についていたので、保管係の人は最初、ないと言った。ところがエルナさんが受け入れ日の並びを読み直し、ひとつ隣の箱も確かめてもらったら、底から出てきた。
「よく、気づきましたね」
「先ほどの台帳で、前後の日付を見たので」
「覚えてたんですか」
「数字は、わりと」
飴のおつりを数えていた人と、同じ人だった。
知らないのと、できないのは違う。
私は当たり前のことを、またひとつ覚え直した。
試験片は豆粒ほどの白い石だった。皮膚に触れさせないよう、木の台へ載せてある。
糸を確かめると、ドナさんの腕留めとよく似た形をしていた。力は弱い。古くなったからなのか、最初から小さく分けてあったからなのかは、わからない。
私は描き写した。
試験片そのものは持ち出さず、紙だけを持って上へ戻る。
廊下の長椅子で休んでいたエルナさんへ、図を見せた。
「同じ向きに、身体からの知らせを押し返しています」
「知らせ?」
「疲れた、とか、痛い、とか。そういうものが来る道に、蓋をするような形です。昨夜まで見ていた指輪の枝にも、似た結び目があります」
エルナさんは自分の右手に目を落とした。
今朝、取り除いたばかりなのに、指輪の内側にはもう細い影ができていた。
「それを、どうすれば、皆さんにもわかりますか」
私は、すぐには答えられなかった。
私には見える。
そう繰り返せば済むなら、半年前に済んでいたはずだ。
「記録を、並べたいです。つけた人が、そのあとどうなったか。ドナさんが、つけると手が楽で、外すと痛いと言ったことも。測定器の値だけでは、わからないので」
「私の分も、書いてください」
彼女が手帳を差し出した。
そこには、昨日眠った時刻と、今朝食べたものが書かれていた。昨夜、私が作った野菜の煮込みまで。
とても小さな字の、その隣に、少し薄味、とあった。
エルナさんが、しまったという顔をした。
「あの」
「……塩、足りなかったんですね」
「おいしかったです」
「言ってくださいよ」
「イルマも食べるので、後から足せばいいと思って」
私が見つめていると、彼女は堪えきれず笑い出した。
つられて私も笑った。半年前の記録を見たあとで、こんなことで笑えるとは思っていなかった。
彼女は手帳を取り戻し、薄味、の隣へ何か書き足した。
「何を書いたんです?」
「次は、自分で塩を取る、と」
私は鞄を閉じた。
そのとき、エルナさんの指先が紙に引っかかった。小さく硬くなった傷が、頁の端を擦っている。
昨夜から気になっていたものだった。
「手の傷、何でできたんですか」
彼女は指の腹を見た。
「祈りのときに、祭具を握ります。細い縁があって。力を込めると、どうしても」
「手袋は?」
「素手で触れないと、力が通りにくいので」
私の針も、指先を厚く覆うと扱いにくい。だから、すぐに何か言うことはできなかった。
「形を変えることは、できませんか」
「古いものなので、考えたことがありませんでした」
エルナさんは、親指でその傷を撫でた。
「でも、聞いてみます。私は、力を入れすぎる癖もあるみたいなので」
「私もです。針を折るの、得意ですよ」
「得意にしなくても」
彼女が、先に笑った。
私はこの人の返事を、だんだん待つようになっていた。
話し終える前から、次にどんな顔をするか知りたくなる。見た目が綺麗だと思うだけなら、こんなふうに、どうでもいい失敗を話したくはならないはずだった。
資料庫から戻ってきたダンさんが、扉の前で足を止めた。
「あの、予備の石ですが、見学は明後日なら大丈夫だそうです」
私は、少し離れて座り直した。
近すぎたと感じたのは、きっと私だけだった。




