第七話 疲れない腕留め
登場人物紹介
■ドナ
夜窓質店の近くで、姉と仕立て屋を営む女性。
気さくで仕事熱心。姪から贈られた「疲れずに働ける腕留め」を店へ持ち込む。
布や縫い物には確かな腕を持つが、忙しいとつい手を動かしすぎてしまう。リゼとは、互いの働きすぎを注意し合う仲になっていく。
翌日の昼、仕立て屋のドナさんが腕留めを持ってきた。箱だけで銅貨十枚ほどの値打ちがありそうだった。
青い絹を張った内側に、金の縁取り。開くと蓋が倒れないよう、細い鎖までついている。
中身は白い革の腕留めだった。銀の留め金に、ごく小さな白い石が嵌まっている。
私は箱を閉じた。
「これ、売るんですか」
「預けたいのよ。月末には請け出せるから」
ドナさんは、私の母くらいの年頃だ。通りの奥で、姉と二人、仕立て屋を営んでいる。右の袖に待ち針が三本刺さっていた。
「姪が祝いにくれたんだけどね。いい品だから値がつくと思って」
「使わないんですか」
「使うのは、お祭りが済んでからでもいいでしょう」
街では来週、収穫を祝う市が立つ。貸衣装の仕立て直しで忙しいのだと、ドナさんは顔を合わせるたび言っていた。
私はもう一度蓋を開けた。
白い石から細い糸が出ている。腕へ巻くと、ちょうど脈に当たる位置だ。
「どんな働きがあるんです?」
「仕事で疲れにくくなるって。姪が、これで手が楽になるよ、ってね」
言いながら、ドナさんが左手で右の手首を包んだ。
それを見て、私は手を止めた。
「つけると、どうなりますか」
「仕事が捗るわよ。針を持っても手が軽いし」
「外したら?」
「……そこまで調べないと、値はつかない?」
店の扉が開いた。
エルナさんが立っていた。今日はイルマさんを伴っているが、昨夜見せに来たときと違い、馬車は表で待っていない。短い距離なら歩いてもよいと言われて、裏通りの手前から来たそうだ。
私は挨拶だけして、右の椅子を示した。
「先に、こちらのお客さんを」
「はい。お待ちしています」
ドナさんは、入ってきた人の顔を見た途端に腰を浮かせた。
「あら、まあ」
エルナさんは頭を下げた。
「お邪魔してすみません。どうぞ、そのまま」
その言い方が、相手をいよいよ立ち上がらせることもあるのだと、この数日でわかってきた。
私は作業台を指で軽く叩いた。
「ドナさん、こちらを続けてもいいですか」
「ああ、そうね。ごめんなさい」
「右手、さっきから動かしにくそうに見えるんですけど」
ドナさんは膝に手を隠した。
「昨日、少し縫いすぎて。夜になると腕留めを外すんだけど、そしたら指が痛くてね」
「つけている間は、痛くない?」
「そう。だから、よく効くんだと思うのよ」
私は布の上へ腕留めを広げた。
古い針を留め金に近づける。糸は灰色の腹を見せたが、私のほうへ伸びてこなかった。人の肌に触れていないと働かないらしい。
「痛みを、感じにくくしているだけかもしれません」
ドナさんの口が、ゆっくり閉じた。
「手が楽になっているわけじゃない?」
「それは、私には診られません。けれど、この石にあるのは、手を治す働きには見えません」
私が答えると、隣から静かな声がした。
「確かめるために、私の治療師をご紹介してもいいでしょうか」
エルナさんだった。
ドナさんは今度こそ立ち上がりかけた。
「そんな、お手間をかけるほどの」
「私は、長く気づかなかったので」
エルナさんが、右手を膝の上で重ねた。
指輪は袖に隠れて見えなかった。
「お仕事が忙しいと、止めにくいですよね」
ドナさんが黙った。
私は針を箱へ戻した。試しにつけてみせてもらう必要は、もうない。
「腕留めとしての値段は、今はつけられません。安全に直せるか調べる間、お預かりすることはできます」
「それじゃ、お金には」
「ならないです。すみません」
ドナさんの肩が落ちた。
この店へ来た理由は、品物を診てほしかったからではない。お金が必要だったのだ。
私は箱の中を見た。立派な箱だけでは、欲しい額には届かないだろう。
「いつまでに、いくら必要ですか」
「明日までに、銀貨八枚。糸屋への払いなのよ。衣装を納めれば入るんだけど、先に材料を買わないと」
「注文の控えは、あります?」
ドナさんが瞬きした。
「あるけど。それも預かってくれるの?」
「紙だけでは無理です。依頼した店に、受け取り日と金額を確かめてもいいですか。前金をもらえるなら、そのほうが利息もかかりません」
「忙しいって、門前払いでね」
エルナさんが少し考えた。
「収穫市の衣装ですか。神殿前の、歌い手の方たちの?」
「そうです。娘たちの衣装を直してて」
「それなら、手配をしている係を知っています。私が今朝、歩く順番を確認した人です」
私はエルナさんを見た。
「無理に払わせるのは」
「確認するだけです。先方が約束したことなら、担当者に届くようにできます」
少しむっとしたような声だった。
私のほうが先回りしすぎた。
「お願いします」
エルナさんはドナさんに向き直り、注文を受けた日と、担当者の名前を聞いた。私が聞き流していた係の名前を、すぐに手帳から探し出す。
イルマさんが短い伝言を預かって店を出た。
ドナさんは何度も礼を言ったが、エルナさんは代金の話が確かめられてからにしましょう、と応じた。
私は腕留めを包み直した。
助けてもらった人の横で、今度は私が、出番を待っていた。
注文した側には、前金を支払ったつもりの記録があった。
受け取るはずのドナさんたちの店には、届いていなかった。
調べると、同じ通りにある別の工房と帳面を取り違えたらしい。午後、係の人が銀貨の袋を持って謝りに来た。
大きな悪意ではなく、忙しい時期の間違いだった。
けれど、それで明日の糸を買えなくなる人はいる。
ドナさんは代金を数えて、ようやく膝から手を離した。
「明日は姉に縫ってもらうわ。私は、布を合わせるだけにする」
「治療師には?」
「行くわよ。もう、そんな顔しなくても」
私とエルナさんが、また顔を見合わせた。
同じ顔をしていたらしい。
見送りのあと、私は売上のない預かり票へ、腕留めの特徴を書いた。
「仕事の邪魔をしてしまいましたか」
エルナさんが尋ねた。
「どうしてです?」
「お金を借りなくて済んだので、お店には」
「質に入れずに済むなら、そのほうがいい日もあります。毎回だと困りますけど」
包んだ腕留めを保管棚に収める。
「今日は、助かりました。私だけなら、別の品を持ってきてもらうところでした」
「係の人を知っていただけです」
「私は知りませんでした」
作業台越しに、エルナさんが私を見た。
言葉を足すべきか迷ったが、やめた。礼を受け取ってほしいときまで、その理由を値切ることはない。
やがて彼女は手帳を閉じた。
「では、また困ったら、聞いてください」
「はい。エルナさんも、変な品物があったら持ってきてください」
「神殿には、たくさんあります」
「一度に全部は困ります」
彼女の笑い声が、棚の間へ転がった。
その午後、指輪の確認を終えると、私は新しく空いた部屋を見てもらった。
祖母のベッドは、よく磨けばまだ十分に使えた。窓の脇に小さな棚を寄せ、燭台と水差しを置いてある。壁には、箱をぶつけてできた傷が残っていた。
「こんなに、片づけてくださったんですか」
「その代わり、廊下の突き当たりが箱でいっぱいです」
「手伝えたらよかったのに」
「力仕事は、まだでしょう」
エルナさんが反論しかけたところで、私は棚の上を示した。
「窓、朝日が入ります。眩しければ、布を足します」
彼女はそこへ近づき、窓枠に指を置いた。
通りの向かいで、洗濯物が揺れていた。神殿の客間のような眺めではない。隣の家の壁と、煙突と、その間を歩いていく猫が見えるだけだ。
「こちらで、十分です」
指が窓枠を離れない。
私は値段を書いた紙を、差し出す時機を逃して持っていた。
エルナさんが振り返って、それに気づいた。
「見積もりですか」
「ええ。マレイさんへ渡す分と、最初の晩の宿代です」
彼女は銅貨五枚という数字を見た。
「これで、いいんですか」
「今回は。最初の晩は、お客さん用の支度もできてなかったので」
「では、次からは?」
「寝具を使う日は、食事と合わせて銀貨一枚。検査は別です。頻繁になるなら、まとめて考えます」
相手の顔色を窺わずに言おうとして、かえって妙に固い声になった。
エルナさんは気にせず、包みから銅貨を五枚取り出した。
「先日のお買い物のおつりで、払えました」
私は受け取った。
リゼの店へ泊まるために、エルナさんが払ったお金だった。
買い取りで私が渡した銀貨が、菓子屋でおつりになり、その一部が戻ってきた。たいした額ではないのに、掌の銅がいつもより重い。
「領収書、書きますね」
「お願いします」
彼女が当然のように応じたので、私は下へ降りるまで笑わずに済んだ。




