第六話 おつりは飴玉で
帰りの馬車が、菓子屋の前で停まった。
エルナさんを神殿へ残して帰るはずだったのに、診察のあと、彼女が飴の話をしたのだ。マレイさんは、店先で選ぶ程度ならと短い外出を認めた。昼前には戻る約束で、イルマさんも一緒だった。
私は鞄を膝に抱え、店の硝子戸を見つめた。
「あそこ、高いですよ」
「そうなんですか」
「包み紙が綺麗なお店です」
「では、中身は?」
「中身も、おいしいですけど」
エルナさんの顔が楽しそうだったので、それ以上は言えなかった。
表に出ている瓶には、橙色、薄紫、乳白色の飴が詰まっている。金色の札に値段が書かれていた。
エルナさんはひとつずつ覗き込み、やがて橙色の瓶の前で足を止めた。
「これは、蜜柑ですか」
「生姜ですよ」
菓子屋の女主人が答え、エルナさんの顔を見た。
息を呑んだのがわかった。
いつもの聖衣ではなく、地味な外套を着ていても、わかる人にはわかるらしい。
「聖女様。こちらは、ぜひお持ちください」
「ありがとうございます。でも、今日は買いに来たんです」
エルナさんが、外套の内側から包みを取り出した。
銀貨三枚。
昨夜私が渡したときと、同じ紐で結ばれていた。
そのうちの一枚を差し出すと、女主人が慌てて手を振った。
「そんな、いつもお世話になっているのに」
「おいくらでしょうか」
控えめだけれど、問いを取り下げない声だった。
女主人が私を見た。
助けを求められたらしい。
「少しずつ、味を選べますか。この人、生姜はたぶん初めてなので」
私が聞くと、女主人は商売の顔に戻った。
「ええ。じゃあ、蜂蜜と生姜と、木苺を二つずつでどうでしょう。銅貨六枚です」
銀貨は銅貨二十枚分だ。
戻ってきたおつりを、エルナさんはその場で数えた。銀貨しかなかった包みの中に、小さな銅の色が増える。
女主人が、白い紙袋を渡した。
「また、お好きな味を教えてくださいね」
「はい。買いに来ます」
戸を出るときのエルナさんは、神殿で休養の予定を取りつけたときより、得意そうだった。
歩道の端のベンチへ腰を下ろしてもらう。イルマさんが御者に話をしている間、彼女は紙袋からひとつ取り出した。
橙色。
「それ、生姜ですよ」
「はい」
「辛いかもしれません」
「そういう味を、食べてみたいです」
包みを開き、口へ入れる。
しばらくして、薄緑の目が大きくなった。
私は思わず身を乗り出した。
「出します?」
エルナさんは首を振った。
口を閉じたまま、必死な顔をしている。
我慢を勧めるのも違うと思って、私は紙を広げようとした。すると彼女は袖を掴み、ようやく言った。
「おいしいです」
「そういう顔には」
「初めが、少し。でも、そのあと、甘いです」
嘘をついているのかと思ったが、紙袋を覗いた彼女は、残りの生姜飴を確かめてほっとしたようだった。
私は蜂蜜を勧められた。
「私の分まで買ったんですか」
「イルマの分も。二つずつだったので」
「宿代、まだ決めてませんよ」
「それとは別です」
彼女は蜂蜜の飴を、私の掌へ載せた。
「一緒に選んでいただいたので」
小さな飴だった。
私なら、仕事の合間に何も考えず食べてしまうような。
けれど、紙を剥がす指が、いつもより丁寧になった。
蜂蜜の甘さが舌に触れる。隣ではエルナさんが、生姜の辛みに慣れてきたのか、足を揃え直して座っていた。
店の中から見るばかりだった通りを、こうして誰かと眺めるのは久しぶりだ。
パン屋の男の子が籠を抱えて走り、花を売る女の人が値札を書き替えている。朝まで降っていた雨を含んだ屋根が、日の当たるところから乾いていた。
「リゼさんは、いつも何を買うんですか」
「飴なら、端が欠けたのを袋で」
「欠けていても、味は同じですか」
「同じです。何味かは食べるまでわからないことがありますけど」
「楽しそうですね」
「そう言われると、急にいい買い物をしてる気がします」
エルナさんは袋を両手で包んだ。
「今度は、そちらにも行ってみたいです」
今度。
私は口の中の飴を、奥歯で噛み砕きそうになった。
「西門の市の日に出ます。人が多いので、お身体がもう少し楽になったら」
「はい」
エルナさんは、その約束を紙に書くかわりに、しっかりうなずいた。
馬車へ戻る際には、私に鞄を渡すよう求めなかった。片手で持っていた菓子袋を自分の膝へ置き、私が乗り込む場所を空けてくれた。
人に手を貸す仕草が、この人はとても自然なのだと思った。
神殿の門で別れるとき、私は明日の時刻をもう一度確認した。
「夕方の五時ですね」
「はい。店じまい前に」
「混んでいたら、お待ちいただくかもしれません」
「客の少ない時間に、あらためましょうか」
「いえ、そこまで心配してもらうほどは、混みません」
正直すぎる返事に、イルマさんが横を向いた。
エルナさんは鞄から小さな手帳を出し、五時、と書いた。
役目で決まった予定のあいだに、私の店へ来る時刻が加わる。
それを覗き込んでいる自分に気づき、私は慌てて目を逸らした。
午後の店には、ちゃんと客が来た。
鍋を預けに来た人が二人、預けていた上着を引き取りに来た人が一人。鍋の片方は、前の持ち主の好みで、何を煮ても酸っぱくなる。呪いというほど大げさなものではないけれど、牛乳を温めるのには向かない。
私は鍋底を調べ、取り外せる金具に味がついていると説明した。
客が去ると、窓に映る自分を見た。
朝からずっと、髪をろくに直していなかった。神殿の廊下を歩いたときも、飴を食べたときも、この頭だったのか。
後ろで留め直し、地下から鈴を持って上がる。
今度は大きめの受け皿を三つ用意した。金属は十分。赤い糸は新品。針を支える台も、位置を変えた。
昨夜の失敗を繰り返す理由はない。
鈴を分ける作業には、一時間以上かかった。
ひとつ分を、短時間だけ目を覚ましておく小さな留め具にする。残りは銅の器に収めたまま封じた。道具として使うには、効き方を少しずつ確かめる必要がある。すぐ売り物には並べられない。
帳簿に銀貨三枚の買い取りと、使った材料を記入する。
利益を出すところまでが仕事だ、と祖母なら言うだろう。
私は売上の欄を見て、今月の支払いを確かめた。店は祖母の持ち物だが、土地の使用料も税もなくなるわけではない。善いことをした晩にも、翌月は来る。
マレイさんへ出す見積もりを書き直した。
処置にかかる時間、確認にかかる時間、宿泊に使う洗濯物。呪いを買い取る額とは、別々に書く。
そこで、鉛筆が止まった。
昨日のベッドはいくらだったのか。
客用の寝具でもないし、食事もあり合わせだった。宿屋ほど取れるとは思わない。でも、無料にすると次も無料にしそうな自分がいる。
さんざん迷って、銅貨五枚と書いた。
飴より一枚安い。
さすがにそれでいいのだろうかと考えているところへ、戸口の鈴が鳴った。
マレイさんの助手が、小さな封筒を持ってきた。
休養と検査の許可が出たこと。見積もりは明日の訪問時に受け取ること。今日、神殿の部屋でもエルナさんが一時間ほど眠れたこと。
私は最後の一行を、二度読んだ。
この店でしか眠れない、というのでもなかった。
よかった、と口にしてから、自分の声が思ったより小さいことに気づいた。
羨ましいわけではない。ベッドなんて、どこにあっても同じだ。
それなのに、二階へ上がって空いたベッドを見ると、昨夜の髪の色がまだ枕に残っているような気がした。
私は勢いよく掛布を外し、洗濯籠へ放り込んだ。
次に祖母の部屋を開ける。
ベッドに積み上げてある箱の山が、こちらを待っていた。
「……本当に、片づくかな」
独り言には誰も答えない。
ひとつ目の箱には、欠けた皿が十二枚入っていた。二つ目には、柄の違う匙ばかりが入っている。三つ目を動かしたところで、底から干からびた花束が出てきた。
祖母に届いたものだろうか。
相手の名前のない紙片に、来年も一緒に、と書いてあった。
私は箱の蓋をそっと閉じた。
捨てるかどうかは、本人に聞かなければ。
そういう品物を預かって暮らしているのに、自分のところへ誰かが来るための場所を作るのは、慣れない仕事だった。
それでも、翌日の昼にはベッドが見えた。
夕方の四時半には、手前の通路も空いた。
窓を開け、布をはたき、鏡に映る髪を一度だけ直す。
五時より少し前、表で馬車の車輪が止まった。
私は箒を立てかけ、急ぎすぎないように階段を下りた。
扉を開ける。
紙袋を抱えたエルナさんが、昨日より血色のよい顔で立っていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
「今日は、お店、混んでいますか」
私の後ろには、客が一人もいなかった。
「ご覧のとおりです」
「よかった。……いえ、よくはないんですよね」
慌てて言い直す彼女に、私はとうとう吹き出した。
エルナさんも笑った。
その声が階段の上まで届くのを聞きながら、私は思った。
ベッドだけではなく、椅子も一脚、多く要るかもしれない。




