第十話 聖女様と椅子選び
その翌朝、客用の椅子を買うと言ったら、イルマさんが左側の椅子を見た。
「これを処分するのでは、いけないんですか」
「買い手を探しているんです」
「いるんでしょうか」
「仕組みがわかって、安全に使えるところを探しています。たとえば、長く待つのが仕事の人とか」
「番をする人が動かなくなったら、困ります」
もっともだった。
私は椅子にかけている、販売保留、と書いた札を直した。この品に関しては、いまだにいい使い道を思いついていない。
少なくとも、聖女様のお供が二人来る日に、一脚しか普通の椅子がないのは不便だった。
エルナさんは、見積もりの控えを膝に載せていた。マレイさんから正式に認められた費用は、私が最初に書きかけたものより高かった。値切られなかったことに驚いていると、彼女は宿屋の料金表まで見たという。
「どうして、そこまで」
「安くなりすぎていたら、私にもわかるように」
「私の商売を、信用していないですね」
「呪いを扱うところは、信用しています」
そこで切られると、どう返していいかわからない。
私は鞄の紐を肩へかけ、戸口へ向かった。
今日は午前だけ店を閉める。家具を見に行くと話したら、エルナさんも一緒に行きたいと言った。移動と休憩を含めて一時間。午後は店で休んでもらう約束だった。
家にある椅子の数を知りたい、という人と、家具を選びたい、という人の顔は違う。
私は後者の顔をしたエルナさんに弱かった。
戸締まりをして、通りへ出る。
秋の風が、雨のあとの湿りを追い払っていた。
彼女の外套は今日は薄い青だった。袖口に細い刺繍が入っている。仕事用の白い衣装しか持っていないと思っていたが、部屋着や外出着もちゃんとあるらしい。
「似合ってます」
口から先に出てしまった。
エルナさんが私を見た。
「ありがとうございます」
私は鞄の紐を持ち直した。
「昨日までより、暖かそうで」
「色も、好きなんです」
「あ、はい。色も」
彼女は袖を少し持ち上げて刺繍を見た。
私が何を言いかけたのか、ちゃんと聞いていたような顔だった。
家具屋は西門の内側、古道具の店が固まっている一角にある。店頭には、脚の高さの違う椅子がずらりと並んでいた。台所用の小さな腰掛けから、貴族の屋敷から出たらしい肘掛け椅子まで。
私はまず、脚を持って揺らした。
次に背もたれを押す。
エルナさんも見よう見まねで別の一脚を確かめた。家具屋の親父さんが奥から出てきて、私の横にいる人を見て、帽子を取った。
その様子を見て、私は先に値札を指さした。
「今日は、普通に買い物です。この値段でいいですか」
「うちは、誰が来ても同じだよ」
「それが助かります」
親父さんが少し笑って、帽子を戻した。
エルナさんは、椅子を一脚ずつ眺めた。
彼女が目を留めたのは、黄緑色の座面がついた、小さな肘掛け椅子だった。布の角は擦れているけれど、木の色が柔らかい。
「座っても?」
「どうぞ」
腰を下ろすと、肩がゆっくり下がった。
私はその顔を見る。
何も起こらない。勝手に幸福な気持ちを植えつける糸も、立ち上がろうとする膝を引き留める結び目もない。
「どうですか」
「背中が、楽です」
「では、それに」
言いかけたら、エルナさんが首を振った。
「リゼさんも座ってください」
「客用ですよ」
「お店で一番長く過ごすのは、リゼさんでしょう」
私は彼女のあとへ座った。
座面が思ったより低い。膝の高さがちょうどよく、肘を置くと、なるほど楽だった。
立ち上がると、エルナさんが私をじっと見ていた。
「決まりました?」
「ええ。悪くないです」
「よかった」
彼女が嬉しそうにしたので、私は値段の相談をする声が少し上ずった。
親父さんは、座面を張り直すなら銅貨四枚追加だと言った。自分でやるなら布代だけになる。
私は家にある布の端切れを思い浮かべた。どれも暗い色だ。
エルナさんが座面を指で撫でた。
「この色で張り直すなら、どのくらいかかりますか」
「午後にはできるよ」
彼女は私を見ず、親父さんの答えを待っていた。
その横顔を見て、私は決めた。
「張り直しも、お願いします」
少しだけ、予定より高い買い物になった。
後悔はなかった。たぶん、帳簿へ書くときに少しだけする。
店へ戻る前に、角の広場で休んだ。
エルナさんの歩く速さが落ちていたので、私から声をかけたのだが、座ると彼女は素直に息をついた。
「疲れました?」
「はい。でも、見られて嬉しかったです」
疲れた、と聞けたことが嬉しかった。
私は隣へ腰を下ろした。
広場では、子どもたちが収穫市の歌の練習をしていた。間違えた子を、別の子が大声で正す。二人とも同じところを間違えて、教えている大人が手を叩いて最初からやり直させた。
エルナさんが、声を立てずに笑っていた。
「本番には、覚えます」
「よくご存じなんですか」
「去年も、その前も、同じところで間違えるので」
私は彼女の横顔を見た。
街へ出るのが何もかも初めて、という人ではない。ずっと見てきた景色があって、聞き慣れた歌がある。ただ、自分のために椅子を選ぶ時間がなかったのだ。
「私、この歌、最後まで知らないです」
「教えましょうか」
「音を外しても、怒りません?」
「怒りません。私も、最初は外しました」
膝の上で、細い指が拍子を取った。
彼女は小さく歌った。
すぐ隣で聞く声は、遠くの壇から聞く声より低かった。途中で私も真似して、見事に音を外した。
エルナさんの肩が震えた。
「怒らないけど、笑うんですね」
「ごめんなさい。いまのは、私も同じところを」
言い切る前に笑ってしまい、歌はそこで止まった。
少し離れたところで立っていたイルマさんが、広場の子どもたちへ視線を移した。見ていないふりが、あまりうまくない人だった。




