第十一話 手放せなかった声
椅子が届いたのは、午後の三時だった。
そのときエルナさんは、二階で眠っていた。
窓には、今朝吊るした薄青の布が掛かっている。昨日、自分で選んだ色の下で、彼女は昼の眠りについていた。
私は親父さんの息子と一緒に椅子を運び、窓辺へ置いた。陽に透かすと、黄緑の布には細い縞が入っている。
椅子が一脚増えただけで、店が少し明るく見えた。
見ている場合ではない、と自分に言って帳簿を開いた。
午前の買い物を記入し、昨日までの預かり票を整理する。品物と番号を合わせていたら、二階の床が軋んだ。
エルナさんが、階段の上から覗いた。
「届いたんですね」
「起こしました?」
「いいえ。もう、自然に目が覚めました」
彼女はゆっくり下りてきて、椅子の前へ立った。
背もたれの木を撫でる。
「座ってみてください」
私が言うと、彼女は腰を下ろした。
よく眠ったあとの、柔らかい顔だった。
この景色のためなら、銅貨四枚は安かったかもしれない。
「何か、私にもできることはありますか」
彼女は座ったまま、帳簿の山を見た。
「退屈ですか」
「いいえ。でも、ずっとリゼさんが働いているのを見ているだけなのも」
私は、作業台の隅に積んだ値札を指した。
「では、札に紐を通してもらえますか。字は私が書きます」
「はい」
エルナさんは嬉しそうに立ち上がった。
椅子を買ったのに、結局、立って手伝ってもらうことになる。
私は札の箱を窓辺へ運んだ。
「こちらでお願いします。座ってできますから」
彼女は笑って、今度はおとなしく座った。
紐を切る音が、一定の間隔で聞こえる。
私はひとつずつ品物へ値段をつけた。煤のついた燭台、鳥の絵を焼いた皿、銀の塗りが剥げた髪留め。どれにも、前の持ち主の手癖が残っている。
エルナさんが皿を見た。
「この鳥、二羽なんですね」
「裏にも一羽います」
「あ、本当です」
皿を裏返し、底の小さな鳥を見つけて、彼女が顔を近づける。
その仕草が妙にかわいく見えて、私は値札の数字を一つ書き間違えた。
消して、書き直す。
利益を削るつもりはない。今はただ、少し目が忙しいだけだ。
しばらくして、奥の棚の下で、小さな音がした。
古い木箱だった。
箱の蓋が、かたかたと震えている。
私が手を止めたのと、エルナさんが腰を浮かせたのは、ほとんど同時だった。
「触らないでください」
思ったより強い声が出た。
彼女の手が止まる。
私は棚へ回り、長い挟み具で箱の留め金を押さえた。赤い札を掛け直し、周りの物を少し離す。
箱の音が止んだ。
振り返ると、エルナさんが両手を膝に戻していた。
「すみません。落ちそうだったので」
「こちらこそ。急に、大きい声を」
私は挟み具を置いた。
「あれ、蓋を開けた人を、よく知っている声で呼ぶんです。外から見て、何も入っていないと思っても、手を入れないでください」
「声で、呼ぶ?」
「知っている人の声に聞こえることもあります。閉めるまで、見つからない人を探し続けてしまう」
エルナさんは箱を見た。
怖がらせたいわけではなかった。けれど、働くところを見せるなら、見た目だけかわいい古道具ばかりを並べておくこともできない。
「私にできることがあるときは、言ってください。自分では、判断しません」
「ありがとうございます」
私は箱に札をつけた位置を確かめた。
作業中の品の区別が、私以外にもつくようにしておくべきだった。ひとりで店を回してきた習慣が、こういうところへ出る。
空の紙を取り、赤い札の意味と、触れてよい棚の場所を簡単に描いた。
エルナさんが隣から覗き込む。
「ここ、さっきの鳥のお皿もあります」
「それはこっちへ移します。確かに、紛らわしいですね」
二人で棚の一段を空けた。
エルナさんは必ず私に確かめてから、品物を持った。私は番号を読み上げる前に、彼女へ重さを伝えるようになった。
その午後の店は、いつもより片づくのが遅くて、いつもより仕事が捗った気がした。
閉店前、木箱を預けた人が、様子を聞きに来た。
細い口髭を生やした、中年の男の人だった。表通りで時計を直している。箱は、亡くなった父親の作業場を片づけたときに出てきた物だという。
私は棚から取らず、まず話を聞いた。
「お返しするには、まだ危ない状態です。封をしたままなら保管できますが、開けて確かめるのは」
「中身が、何もないのは知っています」
彼は帽子を両手で持った。
「何度も、見ましたから」
私は頷いた。
エルナさんは窓辺で、手を止めていた。
「けれど、父の声がするんです。片づけろとか、道具を戻せとか。昔、作業場で聞いていた声で」
男の人は、少しだけ笑った。
聞いていて嬉しいのか、困っているのか、簡単にはわからない笑いだった。
「箱の外へ何か出てくるわけではありません。ただ、開けた人が知っている声へ、聞こえ方を寄せる働きがあります」
私は説明した。
「お父様ご本人が中にいる、ということは、確かめられませんでした」
「そうでしょうね」
彼は、すぐに答えた。
「本物なら、直していない時計が溜まっているのを、もっと怒るはずなので」
私が返事を探していると、彼は帽子の縁を撫でた。
「父は、私が独立するのに反対していました。店を離れるくらいなら好きにしろと、それきりで」
店の奥で、時計が刻む音が聞こえた。
うちで預かっている、どこにでもある時計だった。
「最後まで、店を見には来ませんでした。だから、まだ怒っているんだろうと思っていたら、箱から声がして」
彼は一度、言葉を切った。
エルナさんが、机の上に置いてあった水のカップを、客のほうへ寄せた。口を挟まず、そのまま窓辺へ戻る。
男の人は礼を言い、一口飲んだ。
「何か、違うことを言うんじゃないかと、毎晩開けてしまうんです。お前の店は、どうだとか。直せる時計は、増えたかとか」
私は、棚の木箱を見た。
持ち主が手を離せない品物は、珍しくない。
家賃のために預けても、毎週、無事かどうかだけ見に来る人もいる。中身ではなく包み紙を返してほしいという人もいた。
でも、この箱は、持ち主が自分で閉めるのを難しくしている。
「今、箱はお店にあるので、夜はどうですか」
「眠れます。仕事も、普通にできています。ただ、ここへ取りに来ればまた聞けると、考えてしまう」
彼は、帽子を膝へ置いた。
「声が出なくなったら、もう、聞けませんよね」
「この箱からは、聞けなくなります」
私は答えた。
必ず楽になるとも、すぐ忘れられるとも言えなかった。
その声を聞いていない私には、重さのすべてはわからない。
男の人は、しばらく何も言わなかった。
やがて上着の内側から、古い紙を出した。
「これも、一緒に出てきたんです」
修理の受け取り票だった。
店の名前は、彼の店。
品物は懐中時計。依頼主の欄は空いていて、受け取りには別の人が来たと書いてある。
「父の時計でした。客として出したんです。私のところへ」
私は紙を見た。
父親が、何を考えていたのかまではわからない。
でも、直してもらう時計を息子の店へ持ち込んだことは、そこに残っていた。
「ずっと、箱の声ばかり聞いていたので。こっちの紙を見つけたのは、預けたあとでした」
男の人は紙を畳んだ。
「箱は、買い取ってもらえますか」
私は値段を伝えた。
声を出す働きを、そのまま別の人へ売ることはできない。部品を分け、木箱自体を扱えるようにする手間を引く。高い値段にはならなかった。
彼は、それで構わないと言った。
私は買い取り票を書いた。
名前を書いてもらい、代金を渡す。
彼は財布へお金をしまい、古い受け取り票は、別の胸の内側へ戻した。
「それでは、お願いします」
戸口で帽子をかぶり、帰っていく。
その背中を見送ってから、私は木箱の札を書き替えた。
預かり品から、店の管理する品へ。
それだけの文字の違いでも、引き受けたことが違った。
エルナさんが隣へ来た。
「あの方、また声が聞きたくなるでしょうか」
「なるかもしれません」
「そのときは?」
「話は聞きます。でも、あの状態の箱を返すことはできません。そういう条件で、お預かりしました」
私は棚を閉めた。
エルナさんは、その鍵を見ていた。
「リゼさんの仕事は、品物の中にあるものだけを見るわけではないんですね」
「お金を貸すにも、返ってくる日を相談しますから。品物だけを見ていたら、話が済まないことは多いです」
「私が、最初の朝に夢の話をしたとき、聞いてくれたのも」
彼女が言いかけて、止まった。
私は顔を上げた。
「それは、私が知りたかったからです」
仕事の一部に数えたくなかった。
つい、早口になった。
エルナさんは私を見て、それから、少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
返事が、思っていたより小さかった。
私は鍵を置いた。夕飯の支度をしなければと思うのに、何を作るつもりだったのか、一瞬忘れてしまった。




