第十二話 あなたの好きな物語
夕食には、昨日より少しだけ塩を足した。
それでも塩壺は、エルナさんの手が届くところへ置いた。
彼女がそれに気づいて、私を見る。
「今日は、ちょうどいいです」
「気を遣わなくていいですよ」
「遣っていません」
そのやり取りの間に、イルマさんが自分の器へ塩を足した。
私とエルナさんは黙って彼女を見た。
「好みです」
騎士は、びくともしなかった。
食事が済むと、イルマさんは近くの詰所へ交代の確認に行った。神殿からの正式な訪問になったので、もう姉の家へ行ったことにする必要はない。護衛は夜の間だけ別の人と交代できるようになっていた。
私は皿を洗い、エルナさんに乾いた布を渡した。
彼女は軽い皿だけ拭いた。少し疲れると、自分から窓辺の椅子へ戻る。そのたび、私は言いかけていた心配を飲み込んだ。
全部、先に言わなくてもいい。
そう覚えるには、もう少し練習が要りそうだった。
戸棚へ皿を戻そうとしたとき、階段の脇に本が置いてあるのが見えた。
例の、二人の女の人が近い距離で描かれた本だった。
客室に残っていた本を下へ運んだ際、私の部屋から持ち出したものまで、まとめて積んでしまったらしい。
私は皿を落としかけた。
手を伸ばすより先に、エルナさんがその本を見た。
「あ」
もう遅い。
「見ました?」
「はい」
「今、ですか」
彼女は少し考えてから、正直に答えた。
「最初の晩にも」
私は戸棚に額をぶつけた。
軽くだ。皿は無事だった。
「リゼさん、大丈夫ですか」
「たぶん」
「あの、変なものを見たとは、思っていません」
「いえ、その。私も、変な本だと思ってるわけでは」
言葉が絡まった。
エルナさんは本を拾い、表紙の端を指で整えた。
「神殿の図書室にも、恋のお話はあります。この本は、見たことがないんですが」
「新しいものなので」
「二人は、恋人ですか」
問い方が、静かだった。
からかっているわけではないとわかって、私も少し落ち着いた。
「途中から、そうなります。でも、私、まだ最後まで読んでなくて」
「そうですか」
彼女は表紙を見てから、私へ返した。
「読み終わったら、貸してもらえますか」
受け取った本が、急に重く感じられた。
「いいですけど」
「ありがとうございます」
「女の人同士の話ですよ」
言ってから、自分がひどく余計な確認をしたことに気づいた。
エルナさんは当然のようにうなずいた。
「表紙で、わかりました」
「……そうですよね」
私は本の背を撫でた。
古道具の値段なら、初対面の相手にもずけずけ言える。呪われているとわかれば、神官長の判があっても口にする。
それなのに、好きな物の話になると、こんなに頼りない。
「私、こういう話が好きなんです」
エルナさんが私を見た。
「誰かを好きになって、いろいろ間違えて、最後にちゃんと会いに行くような。ほかのも読みますけど、女の人同士の話は……自分ならどうするかなって、考えやすくて」
そこまで言って、顔が熱くなった。
エルナさんは、すぐには何も言わなかった。
私は本の角を見つめた。
「エルナさんは?」
「私は、本なら、旅のお話が多いです」
「ああ、はい。本の」
それ以外に何を聞こうとしたのか、自分でも認めたくなかった。
彼女は窓の外へ視線を移した。
「行ったことのない場所が、どういう匂いなのか。何を食べるのか。そういうところが好きで」
「うちの祖母の手紙、向いてるかもしれません」
「手紙?」
「港で何を食べたか、ほとんどそればっかりなんです」
私は引き出しから最近届いた便箋を出した。
店のことを気遣う二行のあとに、海老の焼き方の話が続く。最後に、海は案外うるさい、とあった。
エルナさんは声を出して読まず、私の手元を覗き込んだ。
「面白い方ですね」
「人の都合を聞かずに引っ越すくらいには、元気です」
「会ってみたいです」
私は手紙を持ったまま、彼女を見た。
ただの挨拶かもしれなかった。
それでも、エルナさんが海を見ているところを想像してしまった。薄い青の外套を風に押さえて、見たことのない店の品物をひとつずつ覗いていく。その横に、私がいる。
「いつか、行けるといいですね」
私はそれだけ言った。
エルナさんは、私から目を離さなかった。
「はい」
返事のあとに、店の外で馬車が止まった。
イルマさんが戻ってきたのだ。
私は手紙を畳んだ。もう少し遅く戻ればいいのに、と考えてしまったことは、誰にも言わなかった。
翌朝、私たちは予備の蓄魔石を見に行った。
ダンさんが待っていた扉の向こうは、思っていたほど大きな部屋ではなかった。丸い台が六つ。ひとつずつ、乳白色の石を抱えている。床には浅い溝が走り、真ん中の台へ集まっていた。
エルナさんは入り口で立ち止まった。
「こんな音が、していたんですね」
石のひとつが、低く響いていた。
私は耳を澄ました。音というより、胸の内側を軽く叩かれる感じがする。
「力を溜めるときに、鳴ります」
ダンさんが言った。
「祈りの広間で、皆さんが交代で力を送ります。満ちた石は静かになって、必要なときだけ流し出すんです」
「これで、街を守れるんですか」
私の問いに、彼はすぐには答えなかった。
「短い時間なら。大きな儀式で祭壇を使えないときの備えです。ただ、普通は聖女様から流れてくる力を、一時的にこちらへ回しています」
「聖女が、まったく繋がっていなくても?」
エルナさんが尋ねた。
ダンさんは石を見た。
「その試験は、今の指輪ではしたことがありません」
私は袖の下の金色を思い出した。
代わりになるものが、ある。それだけで、明日すべてを外せるわけではない。
「見せてもらえますか。どこまで繋がっているのか」
私は言った。
ダンさんは許可された範囲の台を示した。柵の外から見るだけだ。私は鞄を置いて、溝に沿って目を動かした。
石そのものに呪いはなかった。
だけど、真ん中の台の奥に、見慣れない金の輪が見えた。溝を流れる力をひとつにまとめるものらしい。その向こうは壁の内側へ消えている。
エルナさんが傍へ来ると、輪の一部分が明るくなった。
私は彼女の右手と、台を交互に見た。
「いま、何かしました?」
「いいえ」
ダンさんは頷いた。
「指輪と、ここの流れが合うんです。別の人が力を送っても、同じようにはならない」
私は輪を描き写した。
触れられないところにある結び目を、目で追うだけでも時間がかかる。エルナさんが椅子へ座って休む間、私は図に矢印を足した。
ダンさんがそれを覗き込み、床の溝の名前を書いてくれた。
難しい字が並び始めたので、私は余白へ大きく、石から街へ、と書いた。
「わかりやすいですね」
「私が、読み返してわかるように」
ダンさんは笑い、もうひとつの矢印の横へ、街から指輪へ、と書いた。
私はその字を見た。
「戻ってくるんですか」
「足りない分を知らせます。街の守りが薄くなる前に、こちらでわかるように」
胸の奥が、ざらついた。
昨夜、新しく伸びた枝のことを思った。
私が見ていたのは、ただ一方的に神殿へ力を吸われる糸ではなかったのかもしれない。
エルナさんが立ち上がった。
「足りないと知らせてきたとき、私は断れますか」
その問いに、部屋が静かになった。
ダンさんが、指輪へ目を向ける。
「それは……指輪のほうの結びによります。私には、断定できません」
「では、そこを調べたいです」
彼女は私を見た。
私はうなずいた。
眠れたかどうかの話から、もう一段、奥へ進んだ気がした。
店へ戻ったとき、神殿からの封筒が届いていた。
収穫市に先立って行う祝福の実演について、という内容だった。エルナさんの担当時間を短くし、途中で休憩を入れる。マレイさんの意見が反映されていた。
そして、私にも同席してほしいとあった。
呪いを扱う人間として、祝福品の相談を受ける机を置くという。
差出人は行事の係だった。ドナさんへの前金を届けた人の名前もある。
「私、こういう催しに出たこと、ないですよ」
「私も、仕事をご一緒するのは初めてです」
エルナさんが言った。
「変な物を持ち込まれたら、どうしよう」
「普段から、お店で扱っていませんか」
「普段は、自分の店なので」
私は返事用の紙を取った。
断る理由は見つからなかった。祝福品に困っている人と会えるし、店の名前も知ってもらえる。
何より、エルナさんが仕事をするところを、もっと近くで見たかった。
同席を引き受ける、と書く。
封をするために机を空けたら、昨夜の本が出てきた。
まだ、最後まで読み終えていない。
エルナさんが、それを見て目を和らげた。
「急がなくていいですから」
私は本を鞄に入れた。
「読み終わったら、ちゃんと貸します」
彼女が帰ったあとの店で、私は新しい椅子へ腰を下ろした。
座面は、まだ少しだけ布の匂いがした。
本を開く。主人公は、遠くへ行こうとする女の人へ手紙を書くところだった。
数頁読んで、目が窓へ行った。
ここから、表の通りがよく見える。
エルナさんが来るときには、戸口へ着く前からわかる位置だった。
私は肘掛けに頬杖をつき、今さらそのことに気づいた自分を、しばらく笑っていた。




