第十三話 みんなの聖女様
翌日、神殿前の広場に出された私の机は、花売りの屋台と、祝福された種を配る机の間にあった。
頭上には、葡萄と麦を描いた旗が渡してある。風が吹くたび、隣の屋台から花びらが一枚、預かり票の上へ落ちてきた。
私は三枚目を拾い、花売りの女の人へ返した。
「それは、もう貰ってちょうだい」
「品物に混じると、何の呪いかと思うので」
彼女が笑い、使っていない硝子瓶を貸してくれた。落ちた花びらをそこへ入れる。何も売っていない私の机に、最初に並んだのは花だった。
机の前には、夜窓質店、と書いた札が立っていた。
私はそれを何度も直した。
店の中で見る名前と、人の多い広場で見る名前は、少し違う。
「もう、十分まっすぐです」
背後から声がして振り返ると、イルマさんが立っていた。
「私、傾いてるのが気になるんです」
「それでは、地面のほうです」
彼女は机の脚の下へ、小さな板を差し込んだ。
札がまっすぐになった。
私は礼を言い、椅子へ座った。今日は家の新しい椅子は持ってきていない。借りた腰掛けは硬く、これに何時間も座れるか心配だった。
エルナさんは準備のため、先に神殿へ入っている。
彼女が来るまでの間、私は持ってきた道具を確認した。針、糸、挟み具、木の台。人の多い場所で呪いを抜く予定はない。状態を確かめ、必要なら店へ来てもらう。
最初の客は、眠ると夫の夢にばかり出てしまう枕についての相談だった。
「枕は、持ってこられました?」
「大きいから、今日は置いてきたんだけど」
「現物がないと、何とも。ご夫婦でお使いなんですか」
「別々よ。だってあの人、いびきがすごくて」
呪いなのか、ただ気になっているだけなのか、わからない。
私は店の場所を書いた紙を渡した。
次は、どこへ置いても飼い猫に見つかる小銭入れ。その次は、使うたびに花の匂いが変わる石鹸。
石鹸は隣の花売りの持ち物で、同じ箱に別の香りの石鹸をしまっているだけだった。
「ここにいると、何でも呪われている気がしてきたわ」
「そういうときは、まず箱の中を確かめてください」
私は笑って返した。
そうしているうちに、広場のざわめきが変わった。
誰かが鐘を一度鳴らした。
私の前に並んでいた人たちも、神殿の階段へ顔を向ける。
エルナさんが出てきた。
白い聖衣に、金色の細い縁取り。髪は高くまとめられ、朝の光が耳飾りの真珠を照らしている。小さな飴の袋を握っていた手には、銀の祭具が載っていた。
私は立ち上がった。
思っていたより、遠かった。
階段の上と下。それだけの距離なのに、私の店で見る人とは、周りの空気まで違っていた。
エルナさんは人々へ挨拶した。
声は、広場の隅まで届いた。自分を大きく見せるような話し方ではなかった。ゆっくりと、言葉の終わりを急がず、聞き返さなくてよい速さで話す。
その声を聞いて、泣き出す女の人がいた。
隣にいた小さな子どもが、どうしたの、と袖を引く。
「あの人のおかげで、お父さんが帰ってこられたのよ」
女の人はそう答えた。
私は、そちらを見た。
収穫期の川霧は、ときどき、街の外の道を呑む。濃いところには獣に似た影が混じり、呼ぶ声のする方へ歩いた人を、帰り道から遠ざけるという。城壁の灯りと結界は、その霧から人の住む場所を守っている。
知っている話だった。
けれど、隣で泣いている人を見ると、その話には顔があった。
階段の下へ、大きな陶の鉢が運ばれた。
中には、外の森から持ってきた、黒く曇った石が入っている。エルナさんはその前へ立ち、祭具へ右手を添えた。
人々が静まる。
銀の縁を掴む指に、力がこもった。
私は、あの小さな傷のことを思った。
光が広がった。
派手に噴き上がるようなものではない。鉢の縁から、朝日が水に溶けるように、柔らかい色が満ちていく。
黒く曇っていた石の表面が、ゆっくり明るくなった。
子どもが声を上げた。
石の隙間に、白い小花が一輪だけ挿してあった。しおれていた花が、少し顔を上げる。光が、霧に傷められた土地を守る働きをしているのだと、係の人が説明した。
私は、説明より彼女の手を見ていた。
指輪から腕へ伸びる糸が、一筋、太くなった。
でも、エルナさんは顔を変えなかった。
次の鉢へ移る前に、一度、私のほうを見た。
見つけた、という目だった。
私は小さくうなずいた。
彼女も同じように返し、係の人へ声をかけた。
「ここで、休憩をいただきます」
広場に少しざわめきが広がった。
けれど、誰かが拍手をすると、すぐに人々が手を叩いた。
私は息を吐いた。
休むと言っただけで、すべてが壊れるわけではなかった。
休憩用の部屋は、広場に面した回廊の奥にあった。
イルマさんに呼ばれて入ると、エルナさんが祭具を布の上へ置いていた。
「痛いですか」
私は最初に聞いた。
「右の手首が、少し。でも、今はまだ、話せます」
「話せるかどうかを、基準にしないでください」
マレイさんが横から言った。
私も同じことを言いそうだったので、口を閉じた。
エルナさんは椅子へ座り、右手を差し出した。私は作業をせず、糸の位置だけを図へ書き足した。
指輪の枝が太くなったのは、彼女が祭具へ力を送ったときだ。
けれど、今も少しずつ増えている。
外では、祝福された種を貰った人たちが、エルナさんへ祈りを捧げていた。
「感謝されると、増えるんでしょうか」
彼女が尋ねた。
私が先日、考えたことと同じだった。
「まだ、わかりません。さっきは、力を使ったときに増えました。でも、今も」
壁の向こうで、足音がした。
ダンさんが、板に挟んだ紙を持ってきた。
「広場の灯りを増やした時刻です。それと、鉢へ力を通した時刻。頼まれていた分、つけておきました」
私は図の横へ紙を並べた。
外の灯りは、実演の前に増やされていた。そのあと、広場へ流す力を戻した時刻がある。
私が枝の変化を見た時刻と、近かった。
「灯りが、足りないと知らせている?」
私は呟いた。
ダンさんは首を傾げた。
「実演で流れが変わるので、その埋め合わせかもしれません」
エルナさんは人々の声がする窓を見た。
その横顔を見て、私は急いで言った。
「お礼を言う人たちが、悪いわけじゃないです。そこは、まだ決めないでください」
彼女は私へ向き直った。
「はい。私も、そう思いたいです」
思いたい、と言った。
断言できないのがつらいのだとわかった。
私は彼女の手を支え直した。作業のためではなかった。そう気づいても、離さなかった。
エルナさんは、私の指の上に左手を重ねた。
マレイさんが、窓を少し閉めた。
休憩の終わりまで、私は新しいことを何も言わなかった。




