第十四話 この店の看板はおろさない
広場へ戻る途中、厨房の裏を通った。
開いた窓から、豆を煮る匂いがしていた。香草を入れる順番で、この匂いになるのだと、昔の私は勝手に思っていた。
足が遅くなった。
中から、配膳用の籠を抱えた女の人が出てきた。
見覚えのある丸い顔だった。私が神殿で働いていた頃、食事を渡してくれた人だ。
相手も私を見つけて、立ち止まった。
「まあ。久しぶりじゃないの」
「お久しぶりです」
私は、妙に小さな声で答えた。
挨拶の仕方さえ、忘れたような気がした。
「痩せた? ちゃんと食べてる?」
「食べてます」
「そう。ならいいけど。今日は、お手伝い?」
私は机のある方角を指した。
「店として、相談を受けています。質屋を、継いだので」
「ああ、あそこの札。あんたの店だったのね」
女の人が頷いた。
私は鞄の紐を握った。
「辞めるとき、挨拶もしなくて、すみませんでした」
その言葉を、ずっとどこかで言いたかったのだと思う。
職を失った日の昼、私は食堂へ行かなかった。
机の中にあった物を鞄へ詰め、誰にも会わない廊下を選んだ。窓の向こうで配膳の準備をしている音がしたけれど、そのまま裏門へ向かった。
何も悪いことをしていない、と自分に言い聞かせていた。
それなのに、誰かに名前を呼ばれるのが怖かった。
女の人は、籠を片腕で支え直した。
「忙しかったんでしょう。荷物をまとめるのは、大変だもの」
私は返事ができなかった。
彼女は、いろいろ聞こうとはしなかった。
「今の仕事、好き?」
「はい」
今度は、すぐに答えられた。
女の人が笑った。
「じゃあ、ちゃんと食べて続けなさい。好きな仕事でも、お腹は空くんだから」
そう言って、籠から包みを一つ取り出した。
祭りで働く人たちの昼食だった。
私は受け取りかけ、あの、と言った。
「これ、いくらですか」
「係の人から人数分、預かってるよ。あんたの分もあるはず」
私は広場の机へ、昼食についての案内を置いたままだったことを思い出した。
女の人は、呆れたように眉を上げた。
「お腹が空いても、紙を読めばわかることばかりじゃないのよ」
「はい」
私は笑い、包みを受け取った。
まだ温かかった。
「豆の煮込みは、相変わらずですか」
「相変わらずよ。肉が少ないって、若い人たちは言うけど」
「私は、あれが好きでした」
女の人の顔が、少し明るくなった。
「そういうことは、いたときに言いなさいよ」
「すみません」
「謝らなくていいから。また、食べに来なさい」
私は頷いた。
厨房の窓の向こうで、鍋の蓋が鳴った。
その音を聞いても、今度は逃げ出したくならなかった。
机へ戻ると、花売りの女の人が、私の札を持っていた。
「風で倒れたわよ」
「ありがとうございます」
私は札を立て直し、昼食を広げた。
パンの間に、薄く切った肉と野菜が挟んである。皿も持たず食べられるように、紙の折り方が工夫されていた。
エルナさんが、次の仕事へ向かう途中で通りかかった。
「お食事、取れました?」
「はい。昔、食堂でお世話になった人に会って」
私は包みを見せた。
エルナさんは、その人を知っているらしかった。
「よく、私にも食べなさいと言います」
「聖女様にもですか」
「食べないと、好きな物がわからないと言われました」
私は笑った。
あの人なら、そう言うだろう。
エルナさんが机の上の花瓶を見た。
「お花、増えましたね」
「風で飛んでくるので。これは、お隣から」
彼女は瓶に顔を近づけた。
白い花びらが、息で少し動いた。
「お店に、持って帰れたらいいですね」
「瓶はお借りしているだけなんですけど」
「じゃあ、お花だけ。浅いお皿でも、浮かべられます」
私は彼女を見た。
役目の合間に、うちの店の食卓を考えている。
そのことが、胸の奥をくすぐった。
「エルナさんは、今日は、もう何か食べました?」
「はい。休憩のあとに。マレイに見ていられました」
「よかったです」
「リゼさんも、冷めないうちに」
彼女は一歩離れかけて、戻った。
「夕方には、こちらへ来ます。それまで、無理をしすぎないでください」
私は頷いた。
彼女が人々の間へ戻っていくのを見送る。
今度は、最初ほど遠く見えなかった。
昼食を一口食べる。
半年前、挨拶をしなかった場所で、私は自分の店の名前を立てて座っていた。
午後、私の机へ、一人の神官がやってきた。
灰色の襟飾りに、金の小さな輪がついている。査定を監督する人間の印だった。
「夜窓質店の、リゼ」
名前を呼ばれたとき、私は石鹸の包みを片づけていた。
「はい」
「祝福品を危険品として取り扱っていると、問い合わせが来ている」
私は腰掛けから立った。
机の向こうで、待っていた客が手を引っ込めた。
「状態を調べて、必要な場合には使用を止めてもらっています」
「君の判定は、一度、神殿で覆されている」
その言葉を、机の周りにいた何人かが聞いた。
背中が冷たくなった。
半年前の職場の机。紙を突き返された音。厨房から漂ってきた、豆を煮る匂いまで戻ってきた。
「そのときの報告書を、今、治療師が」
「変更された判定を根拠に、神殿の名で頒布した品へ不安を広げられては困る。今日は、相談を止めてほしい」
目の前の客が、私の札から視線を外した。
私は両手を作業台の上に置いた。
怒鳴りたかった。
この人は、ドナさんの姪が何を願って腕留めを買ったのかも、エルナさんがどんな顔で目を覚ましたのかも知らない。
でも、怒鳴れば、危ない品を売る女が騒いでいる、という景色になる。
「危険が疑われる品を、そのまま使うようには勧められません」
私は言った。
声は、思ったより小さかった。
「判断は、正式な査定官が行う」
「では、今ここに来ている方の品も、引き継いでいただけますか。使ったときの状態まで、確認をお願いします」
神官は客を見た。
客は、布に包んだ品を胸へ抱え直した。
「私は、こっちの人に聞きたくて来たんですが」
その言葉に、私の指が机の縁を掴んだ。
神官はしばらく黙り、次に、私の名札へ手を伸ばしかけた。
「お待ちください」
声がした。
エルナさんだった。
まだ聖衣を着ていた。横にはマレイさんがいる。
神官が深く頭を下げる。
エルナさんはその礼を待ってから、私の机の隣へ立った。
「今日は、治療師の判断で同席をお願いしています。問題があるなら、私たちも一緒に伺います」
「聖女様。品物の判定については」
「私の指輪についても、同じ方が調べています」
周りの人たちが息を呑んだ。
エルナさんは、私ではなく神官を見ていた。
「三か月、眠れませんでした。リゼさんの処置を受けたあと、眠れるようになりました。今はマレイが、経過を確認しています」
私は彼女の袖を引きかけて、止めた。
大勢の前で話すことを、自分で決めたのだ。
「私が良くなった理由を、正しく調べたいんです。判定が変わっていないという理由で、調べることまで止めないでください」
神官がマレイさんを見た。
治療師は、すでに用意していた紙を出した。
「調査を申請しています。使用を止める判断には、私も立ち会います。今ここで、患者の相談を断ち切る必要はありません」
神官は紙を受け取った。
長い沈黙があった。
私は、隣の花売りの瓶を見ていた。落ちた花びらが、水に浮いている。こんな場面でも、風は止まらない。
「改めて、神官長へ報告する」
彼はそう言い、札には触れず去っていった。
私はまだ、机の縁を掴んでいた。
エルナさんが私の手を見た。
「痛くなりますよ」
指をほどこうとすると、うまく動かなかった。
彼女は手を取らず、代わりに机の下へ、私が落としていた鉛筆を拾いに屈んだ。
「まず、続きを」
差し出された鉛筆を、私は受け取った。
目の前で待っていた客へ向き直る。
「お待たせしました。どのような品ですか」
今度は、声がちゃんと出た。




