第十五話 私の知らないわたしのこと
登場人物紹介
■オルセ
大神殿をまとめる神官長。
街の結界と神殿の運営に責任を負い、大きな変更には慎重な姿勢を取る。
相談が終わる頃には、日が傾いていた。
私の鞄には、すぐ使わないよう頼んだ品物が二つと、店へ持ってくる約束をした品の記録が入っていた。布に包まれた二つの品には、持ち主の名前をつけてある。
エルナさんが、机を片づける私のところへ戻ってきた。
もう外套に着替えていた。
「お疲れさまでした」
「エルナさんこそ」
私は布を畳み、道具を並べ直した。
礼を言わなければと思っているのに、口が動かない。
彼女は私が片づけ終わるまで待った。
隣の花売りが、硝子瓶を持ってきた。
「持っていきなさい。花も、少し余ったから」
「瓶、お返しします」
「次の市でいいわ」
白い花と、細い橙色の花が二本ずつ。
私は受け取り、空いた手で鞄を閉じた。
エルナさんが花瓶を持つと申し出たので、それだけ頼んだ。
人が少なくなった回廊へ入ったところで、私は足を止めた。
「ありがとうございました」
エルナさんも止まる。
「さっき。来てくれて、助かりました」
「はい」
「でも、大勢の前で、眠れていなかったことまで言わなくても」
彼女の目が、少しだけ険しくなった。
「言うと、困りましたか」
「困るのは、私じゃなくて」
「私は、隠していたくなかったんです」
花瓶の水が、小さく揺れた。
「眠らず守っていることを喜ばれるたびに、眠りたいと思う自分が、おかしいのかと考えていました。今日、休みますと言ったら、皆さん、拍手をしてくださった」
私は黙って聞いた。
「リゼさんが、私のことで嘘を言っているように扱われるのを、見ていたくなかったんです。でも、それだけではありません。私も、話したかった」
ゆっくりとした声だった。
私は、鞄の紐から手を離した。
「すみません。私のために無理をしたんじゃないかって、勝手に」
「少し、無理はしました。人前で言うのは、怖かったです」
エルナさんは、花瓶を見た。
「でも、言わないで帰るほうが、あとで嫌になると思ったので」
私はその隣へ並んだ。
助けられると、嬉しい。
それだけを先に受け取ればいいのに、私はすぐ、相手が損をしたのではないかと考える。
「今度、お店に来たら、何が食べたいですか」
エルナさんが顔を上げた。
「お礼ですか」
「それもあります。あと、私が作れるものなら、一緒に食べたいので」
彼女は少し考えた。
「あの、神殿の豆の煮込みに似たものは、作れますか」
「肉が小さいやつ?」
「はい」
私は笑った。
「味を思い出してみます」
「一緒に、思い出します」
エルナさんが花瓶を持ち直した。
その帰り道、私は、彼女を最初に見たときとは違う理由で、隣を歩く人が綺麗だと思っていた。
翌日、私たちは神官長に呼ばれた。
執務室には、大きな窓が二つあった。机の上には、読む順番を待っている書類が積まれている。壁際の椅子で、先ほどまで別の客が座っていたらしく、茶のカップが冷めていた。
神官長オルセは、六十歳ほどの、痩せた男性だった。
私は直接話したことはなかった。半年前に戻された書類の、署名だけを知っている。
彼は私たちを座らせ、自分も机の向こうへ腰を下ろした。
「エルナ。具合が改善していることは聞いている」
「はい」
「それは喜ばしい。リゼにも、礼を言おう」
私は頭を下げた。
礼のあとに何が来るか、待っていた。
「ただ、昨日のような場で、祝福に危険があると受け取られる説明をするのは、慎重にしてほしい」
エルナさんが、膝に置いた手を開いた。
「私が眠れなかったことは、事実です」
「事実であることと、人々がどう受け取るかは別だ。結界への信頼が揺らげば、霧の多い季節に街を出ようとする者も出る」
私は、昨日泣いていた女の人を思い出した。
恐怖に顔を与えれば、人が動く。そのことは、私にもわかった。
「では、原因を調べるのを、手伝っていただけませんか」
私は言った。
「同じ分類の品で、身体の不調がありました。分類を決めたときの記録と、指輪の使い方が変わった時期の記録を、見たいです」
オルセ様は私を見た。
「君の見える糸というものは、ほかの者にも確かめられるのか」
「私と同じには見えません。だから、使った人の状態と、設備の動きを並べます」
「断定を避けられるか」
「わからないところは、わからないと書きます」
彼はしばらく机を見た。
その間、エルナさんは口を挟まなかった。
私が話していることを、私の仕事として聞いていた。
「三か月前、北側の蓄魔石が傷んだ」
やがてオルセ様は言った。
「川の増水で地下が湿り、台座にひびが入った。結界の弱まりを避けるため、聖女からの供給を増やした。その処置との関連は、すでに調べさせている」
「修理は?」
「台座は直った。石も交換した。しかし、運転を戻すには確認が必要だ」
私はエルナさんを見た。
彼女の顔が白くなっていた。
「直って、いたんですか」
声が細かった。
オルセ様は目を伏せた。
「先月末には。だが、接続の条件が変わっている。すぐに戻せる状態ではない」
何日も、余計に眠れずにいたのかもしれない。
私はそう考えたが、口にしなかった。条件が変わった、とはどういうことなのか、まだ何もわからなかったからだ。
エルナさんは背筋を伸ばした。
「その確認に、私も加わります。私の身体のことです。何を待っているのか、知りたいです」
オルセ様は彼女を見た。
「不安を増やしたくはなかった」
「知らないほうが、不安です」
エルナさんの声は震えなかった。
私は鞄から、マレイさんに預かった調査の要望を出した。
オルセ様がそれを読み、紙を取った。
資料閲覧と、設備係立会いでの確認を認める。
書かれた文字を、私は一つずつ追った。
その下に、見慣れた署名が入る。
半年ぶりに、同じ署名で扉が開いた。
それを喜んでよいのかどうかは、まだわからなかった。
執務室を出たあと、エルナさんは中庭へ向かった。
私は後ろを歩いた。イルマさんは少し離れてついてくる。
噴水は止まっていた。秋の終わりに近づくと、水を抜いて凍結に備える。底に落ち葉が溜まり、掃除係の人が長い箒で集めていた。
エルナさんは縁へ腰を下ろした。
「知りませんでした」
私は隣へ座った。
「修理が終わっていたこと、ですね」
「はい。終わったら、少し楽になると思っていました。だから、まだ直っていないのだと」
指が、右の袖口をつまむ。
「私は、何を待っていたんでしょう」
私は答えられなかった。
代わりに、彼女が掴んでいる袖を見た。
「これからは、確認しに行けます。わからないまま待つ時間は、減らせます」
「そうですね」
返事はあったが、顔は上がらなかった。
簡単な言葉で、なくせる気持ちではない。
私は鞄を足元へ置いて、黙って隣にいた。
掃除の箒が、石を擦る。
遠くで配膳の鐘が鳴った。
しばらくして、エルナさんが私の袖へ触れた。
「昨日のお話、覚えていますか」
「豆の煮込み?」
「はい」
「材料、買って帰りましょうか」
彼女はうなずいた。
立ち上がるとき、私は手を差し出した。エルナさんがその手を取り、立ったあとも、少しだけ離さなかった。
私は彼女の手を見ないようにした。
見たら、意味をつけたくなりそうだった。
でも、指先の温かさは、ちゃんと覚えていた。
店へ戻る途中、私たちは肉屋へ寄った。
煮込み用の肉の量で迷っていたら、エルナさんが横から言った。
「小さく切るなら、少し多くても」
「神殿のと同じじゃなくなりますよ」
「今日は、多いほうがいいです」
私は肉屋へ、もう少し足してもらった。
それくらいの望みなら、今すぐ叶えられた。




