第四話 朝ごはんと、私の夢
朝、目が覚めたら、店の売り物の毛布を二枚も使っていた。
一枚は自分でかけた。もう一枚には覚えがない。
長椅子から身を起こすと、向かいの作業台で、昨夜の女騎士が帳面を読んでいた。剣は鞘ごと壁に立てかけてある。私が目を擦っている間に、彼女は頁へ指を挟んだ。
「おはようございます」
「おはようございます。毛布、ありがとうございます」
「足が出ていたので」
騎士の名はイルマという。昨夜、伝言から戻った彼女と遅い夕食を食べ、エルナさんは七時半に起こすことになった。朝の礼拝を休む許しはもらっているけれど、十時には治療師が来るらしい。
壁の時計は七時を指していた。
「ずっと起きてたんですか」
「途中で馬車の御者と交代しました。四時間ほど」
「寝ました?」
「はい。あの椅子のお世話にはなっていません」
左の椅子を一瞥して、イルマさんは立ち上がった。
私は毛布を畳んだ。寝不足でまだ重い頭の中に、昨夜見た金の枝が戻ってくる。
「あのあと、お加減は?」
「先ほど覗いたときは、眠っておいででした」
肩から、余計な力が抜けた。
湯を沸かし、硬くなったパンを薄く切る。卵は二つしかなかったので、牛乳を混ぜて大きく焼いた。三人で分ければ一人分が少ないとわからないよう、先に鍋の中で崩す。こういう工夫には魔法が要らない。
イルマさんが戸口で外と短く言葉を交わし、戻ってくる。御者は近くの宿で朝食を取るという。
七時半になる前に、二階で物音がした。
ぱたん、と何かが落ちる音。
私は火を弱め、階段へ向かった。
「エルナさん?」
返事より早く扉が開いた。
金色の髪が、肩いっぱいにこぼれていた。昨夜と同じ服を着たエルナさんは、私を見つけると、泣きそうな顔で息を吸った。
「いま、何時ですか」
「七時半。これから起こそうと」
「朝の鐘が」
「礼拝は、お休みで大丈夫なんですよね。イルマさんから聞きました」
私の後ろにいたイルマさんが、短く補った。
「朝の儀式は副祭司に引き継いであります。灯りも結界も異常はありません」
エルナさんは二人の顔を順に見た。
それから、部屋の中を振り返った。
窓から朝日が入っている。私が拭き忘れた硝子の筋も、床に落ちた昨夜の本も、遠慮なく照らされていた。
「眠っていたんですね」
誰にともなく言った声が、掠れていた。
「よく、眠れました?」
「途中で一度、目が覚めました。でも……もう一度、眠ってしまって」
悪いことをした子どものような言い方だった。
私は笑っていいのか迷い、結局、鍋のほうを指さした。
「朝ご飯があります。お腹は空きましたか」
問いかけた途端に、彼女のお腹が小さく鳴った。
イルマさんが、きわめて自然な動作で咳払いをした。
エルナさんの耳が赤くなる。
「……少し」
「少し、は信用しないことにします」
下へ戻る私のあとから、三か月ぶりに寝過ごした聖女様がついてきた。
最後の二段で足が止まったので振り返ると、彼女は手すりを握っていた。
顔から血の気が引いている。
「立ちくらみですか」
「はい。すぐに」
「ここで待ってください」
支えに行こうとした私より先に、イルマさんが反対側の肘を取った。二人で椅子まで連れていく。もちろん、右の椅子だ。
眠れたからといって、身体がいきなり元通りになるわけではない。
私は水を渡しながら、その当たり前のことを噛みしめた。昨日の仕事がうまくいった嬉しさで、都合のよい続きを考えていたらしい。
「出発まで、座っていてくださいね」
「朝ご飯の、お手伝いは」
「味見をお願いします。塩が足りなければ言ってください」
エルナさんは匙を取り、卵を口へ運んだ。
ゆっくり飲み込む。
顔を上げたまま、しばらく何も言わなかった。
「……多すぎました?」
「温かくて」
「焼いたばかりなので」
「そうですね」
それから二口目を食べた。今度は間を置かずに。
私は自分のパンへ薄くジャムを塗った。向かいではイルマさんが卵を半分、エルナさんの皿へ移そうとして、聖女様に匙で止められていた。
「イルマも、食べてください」
「私はあとでも」
「昨日から、そればかりです」
声が、私と話すときより近かった。
二人の付き合いには私の知らない長さがある。そのことを感じると、なぜかパンを齧るのに力が入った。
硬い耳が、派手な音を立てた。
「リゼさん?」
「大丈夫です。歯は丈夫なので」
何を答えているんだろう、私は。
エルナさんが口元を緩め、私の皿へ卵をひと匙載せた。
「では、これも食べてください」
「それだと、結局」
「三人で、少しずつ」
イルマさんが今度こそ咳払いをした。笑いをごまかしているとわかったので、私はお茶を淹れるふりで台所へ逃げた。
出発までの間、私はエルナさんに洗面台を貸した。
ベッドの脇で外した髪留めも、そこで返した。小さな白い石を嵌めた、細い銀の留め具だ。指輪と違い、呪いの糸は絡んでいない。
エルナさんは鏡の前へ立ち、自分の髪を見た。
「こんなふうに、なるんですね」
「何がです?」
「寝ると、髪が」
片側だけ、少し跳ねていた。
私は口元を押さえた。笑っていい話なのか、まだ少し迷った。
でも、鏡の中のエルナさんも、面白そうに自分の髪へ触れていた。
「いつもは、起きているうちに整えてもらっていたので」
「濡らせば、戻りますよ。たぶん」
「たぶん?」
「私のは、たまに戻らないです」
小さな櫛を渡す。
彼女は受け取り、跳ねたところをそっと押さえた。
うまく戻らなかった。
もう一度濡らして梳く。今度は、別のところが少し浮いた。
聖女様と櫛の戦いを見ていると、手を出したくなった。
「後ろ、少しお手伝いしてもいいですか」
「お願いします」
櫛を受け取って背後へ回る。
細い髪が、指の間を抜けた。店へ来たときには雨に濡れていたので、乾くとこんな色になるとは知らなかった。金というより、明るい麦の穂に近い。
私は、引っ張らないように少しずつ梳いた。
鏡に、二人が映っていた。
まだ名前を知ってから一晩しか経っていない人の髪を、こうして整えている。それが少し不思議だった。
「夢を、見ました」
エルナさんが言った。
私は櫛を止めかけて、続きを待った。
「昔、住んでいた家の台所にいたんです。どこに何があるか、よく知っていて。なのに、パンを入れる籠だけ見つからなくて」
「どこかに、隠れていたんですか」
「目の前にありました。気づいたら、知らない人がそこに座って、卵を食べていて」
「……私ですか」
エルナさんが鏡越しに笑った。
「わかりません。でも、怒る気にはならなくて。その人の分もお茶を淹れようとして、そこで目が覚めました」
窓から、朝の風が入った。
私は櫛を下ろした。
夢を見たいと、昨夜この人は言っていた。
どんなものだったか、忘れそうだと。
叶ったのは、パン籠を探すような、妙な夢だった。
そのことが、なぜだか、豪華な褒美を貰うより嬉しく思えた。
「夢の中でも、人のお世話をしていたんですね」
「そうですね。起きてから、少しおかしくなりました」
「次は、自分が全部食べる夢でも見てください」
「食べきれなかったら、困ります」
「そういう夢の心配までは、しなくていいです」
彼女が声を立てて笑った。
私は髪留めを返した。エルナさんは自分で髪をまとめ、鏡の中の姿を確かめる。
まだ疲れた顔をしていた。
でも、昨夜のように、表情を作るたび力が要るようには見えなかった。
「ありがとうございました。リゼさんの櫛ですね」
「はい。高いものじゃないので」
「お借りした物は、覚えておこうと思って」
私は櫛を受け取り、洗面台の端へ置いた。
覚えてもらうほどの物ではなかった。
でも、この人がまた髪を梳きたいとき、ここに同じ櫛があればいいと思った。
一階へ戻ると、イルマさんが馬車の支度を確認していた。
エルナさんが椅子へ座ったところで、私は騎士へ声をかけた。
「昨夜、来るまで、大変でした?」
イルマさんは私を見た。
何を聞かれたのか、すぐにわかった顔だった。
「行き先を決めたのは、エルナ様です。私は、道を確かめました」
「店のことは、ご存じだったんですか」
「調べました。借りた品物を返してくれる店か。無理に高い物を買わせないか。お金を払ったあとも、話を聞いてくれるか」
私は、少し気恥ずかしくなった。
「悪い評判、ありました?」
「値段のつかない物には、はっきりつかないと言うそうですね」
「それは、悪い評判ですか」
「人によると思います」
真面目な返事だったので、私は笑ってしまった。
イルマさんは、椅子のほうを見た。
エルナさんは、朝食の器をまとめる位置を眺めていた。手伝いたいけれど座っている約束なので、我慢しているのだろう。
「あの方は、行ってみたいとおっしゃったあとも、何度か、やはりやめようとしました」
イルマさんが、小さな声で言った。
「誰かに迷惑がかかると思うと、頼む前に取り下げるので」
私は黙って聞いた。
「でも、昨日は取り下げなかった。ですから、私は馬車を出しました」
視線の先で、エルナさんが私たちに気づいた。
「何のお話ですか」
「リゼさんは、値段を曖昧にしない方だというお話です」
イルマさんが答える。
私は、昨夜まだ決められなかった宿代を思い出した。
エルナさんのほうも、同じことを思い出したらしい。
目が合って、二人とも少し困った顔になった。
その顔を見たイルマさんが、どうやら、と思ったように眉を上げる。
「その話は、帰りにしましょう」
私は急いで鞄を取り、外へ出た。




