第三話 聖女様は、私のベッドで
登場人物紹介
■イルマ
エルナの護衛を務める女性騎士。
冷静で実務に強く、移動の手配から周囲への気配りまで頼りになる。エルナの立場だけでなく、本人の気持ちも大切にしている。
普段は真面目な顔を崩さないが、リゼとエルナのやり取りに、こっそり笑いをこらえていることも。見ていないふりは、あまり得意ではない。
作業が終わったのは、雨音が弱まり始めた頃だった。
鈴は黒い小皿に載せ、鳴らないよう内側を封蝋で固定した。さらに木箱に収めて鍵をかける。明日、中身をいくつかの器へ分けるまでは、開けるつもりはない。
エルナさんの指輪は、外れていなかった。
金色の根も、腕の奥にまだ残っている。
けれど、指先の冷たさは少し和らいでいた。
「今日は、ここまでです」
私は作業台の片隅に、銀貨の包みを置いた。
「明日か、遅くても明後日にもう一度、見せてください。根元が残っているので、また眠れなくなるかもしれません。次は、指輪をつけたときのお話も伺いたいです」
返事がなかった。
「エルナさん?」
薄い緑の目が、半分閉じていた。
彼女は驚いたように瞬きをして、口元に手を当てた。
小さな欠伸だった。
何の変哲もない、途中で飲み込もうとして失敗した欠伸。
それをした本人が、一番驚いていた。
「すみません」
「謝らなくていいです」
「失礼を」
「眠いですか」
彼女はうなずきかけて、途中で目を閉じた。
そのまま前へ傾いだので、私は慌てて肩を支えた。
軽かった。
外套は濡れていて重いはずなのに、その中の身体には、頼りないほどしか重さがなかった。
「馬車は?」
「表に……護衛が、一人」
「呼びますね」
椅子の背に寄りかかってもらい、私は戸口へ向かった。
扉を開けると、傘を持った女騎士が、ちょうどこちらへ歩いてくるところだった。街灯の下で目が合う。
「エルナ様は」
「眠れそうなんです。ここで休んでいってもらって、大丈夫でしょうか」
女騎士は私の肩越しに店内を見た。
それから、傘を下ろした。
「……眠れるんですか」
「今、座ったままで」
傘の端から落ちる雫が、彼女の靴に跳ねた。
エルナさんと一緒に来たのなら、報告書を探したことも知っているのかもしれない。彼女は詳しい説明を求めず、ただ一度、強くうなずいた。
「明日の朝までは、私がついての静養ということになっています。戻りが朝になると、使いの者に伝えてきます」
「場所は、わかっているんですか」
「神殿には私の姉の家に行くと。姉も承知しています」
勝手に抜け出してきたわけではなかったらしい。ただ、訪問先にはいくらか工夫がしてあった。
女騎士は腰の剣の位置を直した。
「私は表にいます。何かあれば、お声を」
「雨ですよ。伝言が済んだら中へどうぞ。椅子は右側のを使ってください」
「右側?」
「左は、いろいろあるので」
店へ戻ると、エルナさんはかろうじて起きていた。
私を見つけて、外套の前を掴む。
「おいくら、ですか」
「何がです?」
「泊めていただく、お金を」
その目が、作業台の銀貨へ向いた。
「一枚、使っても、飴は買えますか」
私は額を押さえた。
神殿の人たちには、たぶん、いろいろ言いたいことがある。
でも、今は眠たくてたまらないお客さんを、横にするほうが先だった。
「ベッドを貸すのは初めてなので、まだ値段が決まってません」
「では」
「起きてからにしましょう。今、決めると私が好きなだけ高くできます」
エルナさんが、うっすらと笑った。
「リゼさんは、そういうことをしません」
「会って、まだ二時間くらいですけど」
返事の代わりに、また欠伸がこぼれた。
私は濡れた外套を脱ぐのを手伝い、階段へ案内した。
一階が店、二階が住まい。祖母が使っていたベッドもあるけれど、今は棚から溢れた荷物が積まれている。急いで空けるより、自分のを貸したほうが早い。
そう思って、寝室の扉を開けた瞬間、後悔した。
椅子に脱いだ上着がかかっていた。
ベッドの上には読みかけの恋愛小説。しかも、表紙に女の人が二人、たいへん近い距離で描かれている。
私はベッドへ突進して、本をひっくり返した。
上着で隠す。
エルナさんは戸口で壁に肩を預けていた。見られたかどうか、確かめる勇気はなかった。
「狭いですけど、こちらへ」
「ありがとうございます」
ベッドの端に腰を下ろしてもらい、乾いた布を渡す。髪の先だけ拭いてから、彼女は自分で靴を脱いだ。
その動きが次第に遅くなる。
横になった瞬間、細い息が、長く出ていった。
私は毛布を肩まで引き上げた。
髪留めが枕に当たっていたので、声をかけてから外す。ほどけた金色の髪が、私の枕の上へ広がった。
なんだか、急に部屋が違って見えた。
「灯り、消しますね」
頬にかかった髪を避けようとして、指を止める。
余計なことだ。眠れるのなら、それでいい。
灯りに手を伸ばしたところで、袖を引かれた。
「リゼさん」
「はい」
「手は、もう、大丈夫ですか」
私は右手の甲を見た。
いつもどおりだった。小さな擦り傷と、落ちきらないインクの染みがあるだけ。
「大丈夫です。見ます?」
差し出すと、彼女は袖を放し、私の指に触れた。
確かめる力も、もうほとんど残っていない。
「温かい」
「エルナさんも、さっきよりは」
握り返すと、薄い緑の目が閉じていった。
そのまま手を引こうとしたら、指先に、わずかな力がこもった。
「朝……」
言葉が途切れる。
私はベッドの脇にしゃがんだ。
「朝、どうしました?」
「朝になったら、起こして、もらえますか」
「ええ。何時に?」
返事を待った。
待っているうちに、指を包む力が緩んでいった。
寝息が聞こえた。
私は、動かなかった。
眠ったところを見たくて店を始めたわけではない。呪いの糸をほどくのが好きだったし、祖母に負けない値段をつけられるようになりたかったし、できれば海老を好きなだけ食べられるくらいには儲けたい。
なのに、ただ人が眠っているだけで、立ち上がるのが惜しかった。
しばらくして、私はそっと手を抜いた。
ベッドの脇に椅子を置く。
朝の何時に起こせばいいのかは、あとで護衛の人に聞こう。自分の夕飯もまだだった。温め直すなら二人分、いや、朝には三人分いる。
音を立てないように戸口へ向かう。
最後にもう一度振り返ったとき、窓の外で街灯が明るくなった。
それに合わせて、毛布の端から見えている指輪が光った。
根元に残した金の糸が、細く、新しい枝を伸ばしていた。
まだ、眠りを妨げるほどではない。
けれど伸びる先は、迷いなく彼女の腕を向いている。
私は戸口で立ち止まった。
次の鐘が鳴れば、また増えるのだろうか。
神殿に戻って祈れば。
街の人が、眠らずに守ってくださる聖女様へ、お礼を言えば。
作業台に置いてきた報告書が頭に浮かんだ。あれは腕輪ひとつの話だった。指輪から街の向こうへ続く糸のことは、何も書かれていない。
明日、確かめなければならない。
私は扉を細く開けたまま、階段へ足を向けた。
少なくとも今夜は、起こさせない。
客用の毛布を取りに下りる私の背中で、エルナさんが小さく寝返りを打った。




