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第二話 銀貨三枚の眠り

 聖女様は金貨を一枚も持っていなかった。

 それどころか、銅貨もなかった。

「普段、お買い物はどうされているんですか」

「必要なものは、係の方が」

「欲しいものは?」

 問いかけてから、失敗したと思った。

 エルナさんは考え込んだ。欲しいものを言うのが恥ずかしい、という顔ではなかった。自分が何かを欲しがった場面を、ひとつずつ遡って探しているようだった。

「小さい頃には、飴を」

「最近のお話で」

「では、あまり」

 私は指輪の代わりに、彼女が差し出した耳飾りを受け取った。

 真珠がふたつ。留め金に小さな紋章が彫られている。

「これで、足りますか」

「こちらはご自分のものですか」

「就任の際に、神殿から」

「お返しします。借り物だと、あとで揉めるので」

「……では、払えるものがありません」

「買い取りですから、お金を払うのは私ですよ」

 薄い緑の目が上がった。

「あの。本当に、買ってくださるんですか」

「買えるところだけ。全部は無理です」

 私は棚から、小さな銅の鈴を出した。

 鳴らしてみる。ちりん、と軽い音がした。

「眠りを奪う呪いは、夜番用の道具にできます。一晩だけ起きていられる鈴なら、欲しがる人はいるんです。ただし、強すぎる分は抜いてから売ります」

「他の方が、私のようには?」

「なりません。人から離して、決まった回数しか使えないようにします。安全な品にできなければ売りません」

 説明しながら、鈴の内側に傷や割れがないか確かめる。

 神殿での仕事を失ってから、私は祖母の店を継いだ。祖母はすでに南の港町へ引っ越して、手紙のたびに海老のおいしさを書いてくる。

 店を継ぐ前、最後に教えられたのは、危ない品物を売るな、というひどく当たり前のことだった。

 買い手が気をつければいいと思い始めたら、店を畳め。

 海老に夢中になる前の祖母は、そう言った。

「今から試すのは、指輪からあなたへ伸びている糸の、枝の部分です。そこに、眠れなくする働きがある」

 私は自分の右腕を指でなぞった。

「それをこちらへ移せば、今夜は眠れるかもしれません。でも、神殿と繋がっている根元には触れません。何をしている糸なのか、まだわからないので」

「結界に、影響は出ませんか」

「それを確かめながらやります。変化があれば、途中でやめます」

 できると言い切れなかった。

 いくら高く売れそうでも、値段をつけてはいけない品物はある。わからないものを、わかった顔で扱う人にだけはなりたくなかった。

 エルナさんは指輪を見つめていた。

「神官長は、慣れればつらくなくなるとおっしゃいました」

 私は返事をせず、鈴の柄に赤い糸を結んだ。

「眠る必要がなくなったのだから、その時間を祈りに使える。ありがたいことなのだと。皆さんも、お休みにならずに働いているので、私だけつらいと言うのは……」

「横になったとき、どうなりますか」

「目を閉じても、ずっと起きています。夜が明けるまで」

「それで、朝になると?」

「立てます。指輪が、身体を動かしてくれるので」

 針を持つ指に、力が入った。

「エルナさんは、眠りたいんですね」

 彼女はうなずいた。

 それまでより、ずっと小さく。

「夢を見たいんです」

 作業台の上で、冷たい指が重なった。

「どんなものだったか、忘れてしまいそうで」

 私は針を置いた。

 隣の引き出しを開け、買い取り用の紙を一枚取る。

「銀貨三枚で、いかがでしょう」

「三枚」

「鈴に移せる分の、お値段です」

「もっと、お支払いしなくても?」

「払うのは私ですって」

 エルナさんが口元に手を当てた。

 笑ったのかと思った。でも、指で押さえた唇が、しばらく動かなかった。

 私は銀貨を三枚、紙の端に並べた。

 やがて彼女は手を下ろし、ぎこちなく一枚をつまんだ。重さを確かめるように、掌に載せる。

「このお金は、何に使っても?」

「ご自分のお金ですから」

「では、飴を」

「最近も欲しかったんじゃないですか」

「……はい」

 ようやく見えたその顔に、私は困った。

 綺麗な女の人には、もともと弱い。

 それでも、銀貨一枚を握って飴の話をする聖女様を前に、自分の店の儲けについてちゃんと考え続けられるほど、私は商売に向いていなかった。

 鈴を売るなら、最低でも銀貨五枚。

 封蝋と糸の代金を引いて、残りは二枚に満たない。

 その計算を頭の中で一度だけしてから、私は紙を彼女のほうへ向けた。

「痛んだら、すぐに言ってください。少しでもです」

「わかりました」

「途中でやめたくなったときも」

「はい」

 エルナさんは買い取りの同意欄に、ゆっくり名前を書いた。

 大神殿で祈る人と同じ名前が、古い作業台の上に残った。


 針で、糸をすくう。

 金色だと思っていた糸の裏は、濁った灰色をしていた。

 明るく見える面だけが肌の外へ向き、暗い面は、肉の内側へぴたりと張りついている。

 神殿で使っていた測定器は、魔力の強さと色を量る。それだけなら、この指輪は疑いようのない祝福品だろう。

 でも、皮膚から剥がれてくるものは違った。

 私は浅い呼吸を繰り返した。

 糸の先を鈴の内側に通す。一巻き。間を置いて、もう一巻き。

「どうですか」

「少し、温かいです」

 エルナさんの右手が、私の左手に載っている。

 脈が速かった。

 私は糸を引く速さを落とした。

 指輪から窓の外へ伸びる太い糸は、変わらずに光っていた。胸へ向かう糸にも、目立った変化はない。

 鈴の内側に、薄い影が溜まっていく。

 雨が強くなった。庇の壊れたところから、一定の間隔で雫が落ちる。作業のときには気になる音なのに、その晩は、自分の呼吸を整えるのにちょうどよかった。

「リゼさん」

「はい」

「どうして、あの報告書を書いたんですか」

「危なかったからです」

「止められませんでしたか」

 私は針先を見つめたまま、うなずいた。

 上司には三度、書き直すように言われた。

 祝福には、一時的な身体の不調が伴う場合がある。その表現に変えれば済んだ。神殿の仕事は給金がよく、昼には温かい食事が出た。

 それを思い出すと、今でも惜しい。

「私、厨房の豆の煮込みが好きだったんです」

「え?」

「神殿の。肉が小さいやつ」

「……わかります。香草が入っていて」

「あれを食べられなくなるのは、ちょっと嫌でした」

 糸が、少しだけ緩んだ。

「でも、書記官の人が、お昼もずっと手を震わせていたので」

 匙が器に当たる、細かい音を覚えている。

 何度も当たるのに、本人は気にしていなかった。自分は調子がいい、仕事が早く済む、と言った。

 次の週、その人は階段で倒れた。

「あの人は、そのあと」

「地方の療養所へ。腕輪も外されました。少しずつ回復していると聞いています」

 エルナさんの声が、前より近かった。

「あなたの報告書が残っていたので、治療を担当した方が参考にしたそうです」

 私は、一度だけ手を止めた。

「そうですか」

「はい」

 紙は捨てられかけていた。

 仕事は失くした。

 それでも、あの鼠の記録まで読んだ人がいて、そこからこの人が店へ来た。

「それなら、よかったです」

 針を動かす。

 ほんの少し、見えにくくなっていた。作業台の灯りのせいにして瞬きをした。

 鈴が一度、鳴った。

 吊ってもいない舌が震え、金属の内側を叩いた。

 私の眠気が、すっと消える。

 まずい。

 引きすぎたのではない。糸が、銅の内側へ食い込み始めていた。このまま巻けば、鈴が持たない。

「少し止めます」

 針を固定する。

 エルナさんが顔を上げた。その右手に、一瞬だけ力が戻る。

「私のほうへ、戻してください」

「まだ大丈夫です」

「でも、あなたの手が」

 針を支える右手の甲に、細い灰色の線が浮かんでいた。

 逃げ場を探した糸の端が、皮膚に触れている。

 痛みはない。だから余計に厄介だった。ほうっておくと、自分は疲れていないと勘違いしたまま作業を続けてしまう。

 私は足元の箱を爪先で引いた。

「右の引き出しを開けてもらえますか。中の、木の挟み具を」

「これですか」

「はい。針には触れずに、赤い糸だけ挟んでください」

 エルナさんは迷わず手を伸ばした。

 左手で挟み具を持ち、作業台に渡した赤い糸を留める。

 私は空いた右手で、足元の箱から細い銅線を取った。同じ銅を継ぎ足せば、器が受け止められる量も増える。鈴の外側に巻く。底から柄へ、重ねて、もう一周。

 出るはずのなかった汗が、額を流れた。

「そのままで」

「はい」

 鈴の響きが低くなる。

 灰色の線が手の甲から離れた。

 私は線の先を針で拾い、鈴の内側へ押し込んだ。外側の銅線まで、かすかに金色を帯びる。

 止まった。

 私は、深く息を吐いた。

「ありがとうございます。もう、放して大丈夫です」

 挟み具が作業台に置かれた。

 エルナさんは何も言わず、私の右手を取った。

 掌を返し、甲を見て、残った線がないことを確かめる。

 その顔があまりに真剣で、私は少しだけ笑いそうになった。

「治療は要りませんよ」

「そうですか」

「鈴の補強は済みました。これ以上入りそうになければ、今日はそこまでにします」

「本当に?」

「はい」

「痛んだら、すぐに言ってください。少しでもです」

 ついさっき私が言った言葉だった。

 顔を上げると、エルナさんは、返事を待っていた。

 私は観念してうなずいた。

「わかりました」

 彼女がようやく手を放したので、私は赤い糸を確かめ直した。

 残りは、ほんの一筋だった。

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