第二十一話 抱きしめた理由
翌朝、神官長との面談は、短いものになるはずだった。
私たちは、一時間近く執務室にいた。
昨日の練習を説明しても、オルセ様は慎重だった。小さな石でできたことと、街の結界で同じことができるかは違う。それは、その通りだった。
私は一度、紙を置いた。
「次にお願いしているのは、全部を外す許可ではありません。戻る光を合わせられるか、短い時間だけ確かめる許可です」
「その短い時間にも、彼女は痛みを訴えた」
「だから、痛みが出たところで止めました。次も止める条件を決めます」
オルセ様は私を見た。
「君は、止めれば必ず元に戻ると保証できるのか」
「できません」
口の中が乾いた。
私は続けた。
「でも、今のまま続けて、必ず無事でいられるとも言えません」
マレイさんが、ここで紙を出した。
この数日のエルナさんの状態だった。眠れるようになったことで良くなったところと、指輪の接続が残るために、変わらないところ。
右手の冷え。祈りのあとの胸の痛み。短い外出でも疲れること。
彼女は、悪化する順番を予言するような話はしなかった。
ただ、ここまでの記録を示した。
「休息で戻る分を、指輪がまた削っています。今の処置で時間は稼げますが、これを長く続ける計画には賛成できません」
エルナさんが、顔を上げた。
「私は、街を守る仕事を続けたいと思ってきました。今も、皆さんを怖い目に遭わせたくありません」
オルセ様はうなずいた。
「だが」
「最後まで、聞いてください」
エルナさんの声が、部屋を止めた。
私は、隣で息を潜めた。
「眠れないまま、この指輪をつけ続けたいとは思っていません。失敗するかもしれない試験を受けるのも怖いです。それでも、準備をして、外すほうへ進みたい」
彼女は右手を机へ置いた。
「どちらを選んでも、私の身体に起こることです。私が選ぶための話を、私のいないところで終わらせないでください」
オルセ様は、机に置かれた手を見ていた。
白い石が光る。
その下の指は、細かった。
長い沈黙のあと、彼はダンさんへ向いた。
「次の試験で、何を確かめれば先へ進める」
ダンさんは、用意した紙を開いた。
私は、握っていた鉛筆を持ち直した。
話が、ようやく変わった。
小さな切り替えの試験は、その日の午後に行われた。
私は前回使った一番の皿を持ち込まなかった。中身をまだ分け終えていないので、新しい皿に取り替えてある。番号は同じにせず、五番と書いた。
エルナさんがそれを見て、口元を緩めた。
「番号が、飛びましたね」
「使用中のものと間違えないためです」
「では、五、二、三、四」
「やっぱり、並べ方を変えましょう」
私たちは皿を動かし、二番から順に置き直した。
マレイさんが、そのやり取りを見ていた。
前の試験のときより、誰もが少しゆっくりだった。
神官たちが、エルナさんの送る力に間を合わせる。
石の光が重なった。
私は指輪の輪を見る。
細い金の線が、押し返されずに通っていった。
「今のまま」
声を出す。
エルナさんの手は、まだ温かかった。
「胸は?」
「少し、触れられる感じがあります。でも、引かれていません」
ダンさんが時間を告げた。
私には、時計を見る余裕がなかった。
戻る糸が、今度は身体の奥へ向かわなかった。二番の皿へ受けられる細さで、針の近くを揺れている。
私は先をすくい、巻いた。
ひと巻き。
前のように、急に鈴が鳴ることはない。
もうひと巻き。
エルナさんの肩が下がった。
「楽です」
小さな声だった。
私は目を上げなかった。
嬉しくて顔を見たら、針を止めてしまいそうだった。
決めていた時間が来た。
誰かが、もう少し続けられると言いかけた。
ダンさんが首を振った。
「今日は、決めたところまでです」
ゆっくり元の流れへ戻す。
その途中も、輪は暴れなかった。
私は皿を封じ、台から針を外した。
エルナさんが息を吐く。
マレイさんが手を取り、しばらく確かめてから、うなずいた。
私はそこで初めて、膝に力が入らないことに気づいた。
椅子に座ると、エルナさんが私の肩へ手を置いた。
「リゼさん」
「大丈夫です。ちょっと、ほっとしただけで」
「私もです」
彼女の声も、少し震えていた。
全部は終わっていない。
指輪は、まだそこにある。
それでも、外せるかもしれないという言葉を、初めて願望だけではなく口にできる気がした。
夕方、店へ戻って道具を置くと、私はいつもの癖で次の仕事を探した。
預かり票を見て、手を止める。
今日の作業は、もう終わりだった。
エルナさんが階段の手前に立っていた。
「少しだけ、お話ししてもいいですか」
「はい」
私は窓辺の椅子を示したが、彼女は首を振った。
そのまま、私の前へ来た。
「今、抱きしめても、いいでしょうか」
私は声を出せなかった。
首を縦に動かしたのが、返事になったらしい。
彼女が腕を広げた。
外套の布が、頬へ触れる。
私は両手の置き場所に迷ってから、彼女の背へそっと回した。
思っていたより、近かった。
当たり前なのに、そんなことを思った。
花の香りがした。胸のあたりに顔を寄せるほどではなく、肩と肩を合わせているだけなのに、呼吸の動きがわかる。
エルナさんの腕には、力があった。
眠い人を支えた晩とは違う。彼女が、自分で私を抱きしめていた。
「ありがとうございます」
耳の近くで言われた。
私は、目を閉じかけた。
その一言を、お礼という箱に入れてしまえば、扱うのは簡単だった。
お客さんが治療に感謝している。
それだけなら、私は間違えない。
「まだ、最後まで終わってませんよ」
そう答えた瞬間、彼女の腕の力が、わずかに変わった。
「はい」
返事があった。
私は背に置いた手を、動かせなかった。
本当は、嬉しかった。
礼を言われるより、この人が私のところへ来て、こうしたいと聞いてくれたことが。
でも、うまく言い直せないまま、身体が離れた。
エルナさんは私を見た。
薄緑の目に、何か言いたそうな色があった。
「お茶を、淹れましょうか」
彼女が言った。
私はうなずいた。
二人で別々の椅子へ座る。
さっきまで触れていた場所だけが、服の上からでもわかる気がした。
湯気の向こうで、エルナさんがカップを包んでいた。
私は、棚に戻した本を見た。
離れるとわかってから、言いたかったことが増える。
朝、彼女が言った言葉が、今ごろになって胸へ戻ってきた。
指輪を外せたら、治療は終わる。
客室は、また空く。
私は、そのあとの約束を一つも持っていなかった。




