第二十二話 治ったあとも会いたい
指輪を外す日が決まったのは、エルナさんが初めて店へ来てから、二週間ほど経った朝だった。
明後日の夜。
街の用事が一段落し、灯りに使う力を減らせる時間を選ぶ。予備の石を満たし、神官たちは交代で供給を続ける。指輪からの流れを切ったあとも、しばらくはそのまま維持する。
ダンさんが紙を持って来た。
私は受け取り、日時を確かめた。
最後の行に、神官長の署名があった。
許可を待っていたはずなのに、紙を受け取った瞬間、足元が少し頼りなくなった。
これから、本当にやるのだ。
「前日は、作業を減らしてください」
ダンさんが言った。
「あなたが疲れていると、困ります」
「わかっています。今日は、器の確認だけです」
「食事は」
「済んでいます」
「睡眠は」
「皆さんで、私を何だと思ってるんですか」
ダンさんは、少し困った顔で笑った。
「自分のことを後回しにする人だと」
反論できなかった。
私は机へ紙を置き、準備の一覧を開いた。
銅の器は八つになっていた。使った番号とは重ならないようにし、外側に大きな字で書いてある。受ける順番も決めた。空きが十分に残る見込みだったが、最後の二つは予備だ。
最初の鈴のような見積もりは、もうできない。
それぞれの厚みを確かめ、針を支える台へ実際に置いてみる。
ダンさんが重い器を持ち、私が位置を決めた。
そこへ、エルナさんが来た。
紙を見たのだろう。戸口で一度、足を止めた。
「明後日ですね」
「はい」
「よろしくお願いします」
彼女は深く頭を下げた。
私は返事をしようとして、少し迷った。
よろしくお願いします、と言われると、私一人がすべてを引き受けるような気がする。
だから、いつもと違う言葉を返した。
「こちらこそ、お願いします。エルナさんの役目も、ありますから」
彼女が顔を上げた。
笑いかけようとして、うまくいかなかったような表情だった。
「はい。覚えています」
指が、右の手袋の縁を撫でる。
私は彼女を椅子へ案内した。
明後日の話を始める前に、今日の彼女が何を食べたか、聞こうと思った。
午後、最後の打ち合わせがあった。
私は店を閉める札を出し、神殿へ向かった。今度の札には、戻る時刻を少し長めに書いた。早く戻れたら開ければいい。
執務室には、オルセ様、マレイさん、設備の責任者、ダンさんがいた。イルマさんは警備の配置を確認している。
誰も、全部うまくいくと言わなかった。
代わりに、何が起きたら止めるかを決めた。
胸の痛みが強くなる。指輪の光が予定と違う向きへ戻る。器に余裕がなくなる。予備の石が想定より早く弱まる。
そのどれかがあれば、一段戻す。
全部を一気にほどかない。
私の書いた手順へ、ダンさんが設備側の動きを重ねた。マレイさんは、エルナさんが答えられない状態になったら誰が止めるかを確認した。
エルナさんは、その話を最後まで聞いていた。
途中で、ひとつだけ尋ねた。
「外したあと、私はどうなりますか」
マレイさんが答えた。
「急に身体が元通りにはなりません。しばらく休養が必要です。眠れる時間が安定して、食べられる量が戻るかも、見ていきます」
「神殿で?」
「診察を受けられるなら、場所は相談できます」
私は、紙の上を見ていた。
客室のベッドが、頭に浮かぶ。
でも、私の部屋を選んでくださいと言う場所ではない。
オルセ様が、声をかけた。
「役目については、身体が落ち着いてから話そう」
エルナさんは、その言葉を聞いた。
「指輪を外せたら、常時の供給をする役目は、ここで終えたいです」
部屋が静かになった。
私は顔を上げた。
「休養を取るだけではなく?」
オルセ様が尋ねた。
「はい。今後、お手伝いできる仕事は相談したいです。でも、眠る時間まで差し出す役目には、戻りません」
エルナさんは、私を見なかった。
自分の望みとして、話していた。
オルセ様はしばらく黙った。
やがて、わかった、と言った。
その短い返事が、どこまで実際の形になるかは、まだこれからだった。
でも、エルナさんが言葉にしたことは、もう消えなかった。
打ち合わせを終えると、彼女は私へ向いた。
「少し、歩いて帰りませんか」
「途中までなら」
私が答えると、イルマさんが先に外の空を見た。
まだ明るい。馬車はいつでも寄せられる。
彼女がうなずいたので、私たちは裏門へ向かった。
神殿の坂を下りる途中に、小さな庭があった。
夏には人が多いけれど、今は花壇の土が見えている。隅に残った紫の花が、風に揺れていた。
エルナさんがベンチへ腰を下ろした。
私は鞄を足元に置き、隣に座った。
「怖いですか」
聞くと、彼女はすぐうなずいた。
「はい」
私は、その返事にほっとしてしまった。
「私も、怖いです」
「針を、持つことが?」
「失敗することが。エルナさんが痛いと言ったとき、ちゃんと止められるか。もう少しやればと思って、聞こえないふりをしないか」
声にして、自分の怖さが少しはっきりした。
エルナさんは膝の上で指を組んだ。
「前の試験では、止めてくれました」
「はい」
「次も、言います。リゼさんだけが、気づかなくてはいけないわけではありません」
私は彼女の横顔を見た。
私を安心させるためだけに、大丈夫だと言う人ではなくなっていた。
いや、最初からそういう力を持っていたのに、私が知らなかっただけかもしれない。
ベンチの下を、小さな雀が横切った。
エルナさんはそれを目で追った。
「終わったあと、何をしようか考えています」
私は鞄の紐を指で巻いた。
「旅、とかですか」
「いつかは。でも、すぐには体力が足りませんね」
「ゆっくり、決めればいいと思います」
言いながら、その言葉が私自身には向いていないとわかっていた。
ゆっくり決めているうちに、この人が遠くへ行ってしまったら。
私が、何も言わないうちに。
エルナさんがこちらへ向いた。
「リゼさんは、お店を、どうしたいんですか」
「どう、というのは」
「もっと広くするとか。別の町へ行くとか」
私は考えた。
毎月の支払いと、明日の客のことばかりを考えていたので、その先を言葉にするのは久しぶりだった。
「今の店が好きです。広くできるなら、奥に、呪いの品だけ置ける部屋を作りたいですね。普通のお客さんが、箱を開けそうにならないように」
エルナさんが、少し恥ずかしそうに笑った。
「私も、開けかけました」
「だから、そう思いました。あと、作業の台も増やしたいです。人に手伝ってもらえるように」
「いいですね」
「儲かったら、南へ旅行します。祖母に店を任せられるくらい元気なら、しばらく戻ってきてもらって」
「おばあ様が、嫌だとおっしゃったら?」
「そのときは、店を閉めて行きます。たぶん、嫌だって言います」
私たちは同時に笑った。
そのあと、笑いがほどけたところで、沈黙が来た。
エルナさんは、私の話の続きを待っているようだった。
私は、うまく言えないまま口を開いた。
「そのとき、一緒に来てくれたら、嬉しいです」
彼女の目が、まっすぐ私へ向いた。
逃げられなくなった。
いや、逃げなければいけないわけではない。
私は紐をほどき、膝の上に両手を置いた。
「旅のときだけじゃなくて。治療が終わっても、お茶を飲みに来てほしいです。本を返す用事がなくても、何も買わなくても」
エルナさんは、瞬きをしなかった。
「私、エルナさんが来る前に、髪を直すようになりました。机を拭いて、好きそうなお菓子を取っておいて。帰ったあと、窓を見てることもあります」
言うほど、顔が熱くなった。
用意していた台詞などなかった。
ただ、この人が隣にいるうちに、言いたかった。
「好きなんです」
最後は、短い言葉になった。
エルナさんの唇が、わずかに開いた。
私は、すぐ言葉を足そうとした。
返事はいらないとか、困らせたかったわけではないとか。言えば、自分の怖さを少し隠せそうだった。
でも、黙った。
彼女が何を答えるか、聞きたかった。
エルナさんは私の右手へ、自分の左手を重ねた。
「私も、リゼさんに会う日は、服を選びます」
ゆっくりと、彼女は言った。
「最初は、よそへ行くからだと思っていました。でも、ほかの場所へ行くときは、あんなに迷わないんです」
指が、私の手の甲を包んだ。
「貸していただいた本も、読み終えたあと、すぐには返したくなくて。あと何頁か残っていれば、ここへ来る理由があるような気がしました」
「理由なんて」
私の声が、途中で止まった。
自分も、同じことをしていた。
「昨日、抱きしめたのは、お礼だけではなかったんです」
エルナさんは目を伏せ、それから、もう一度私を見た。
「好きです。リゼさん」
胸が苦しくなった。
嫌な苦しさではなかったけれど、息をどうすればいいのか、一瞬わからなくなった。
私は彼女の手を握り返した。
指輪のある右手ではなく、空いている左手を。
何も引っかからず、指が重なった。
しばらく、そのままでいた。
庭の入り口のほうで、イルマさんが立つ位置を変えた。こちらへは来なかった。
「明後日が、終わったら」
エルナさんが言いかけた。
私は首を振った。
「終わる前も、好きです」
彼女が、困ったように笑った。
「私もです。でも、終わったら、もっと先の相談をしたくて」
「はい」
私はうなずいた。
今度は、待てると思った。
何も知らないまま、相手がいなくなるのを想像して待つのではなかった。
話したい先のことが、二人分あった。




