第十九話 外せない指輪
試験の日の朝、エルナさんは借りていた本を持ってきた。
厚い紙で表紙を包み、細い紐で結んであった。
「汚していないと思いますが、確かめてください」
「借りた本を返すのに、そんなに身構えなくても」
私は受け取り、包みを開いた。
折れも、染みもない。
ただ、頁を開くと、どこかで嗅いだことのある花の香りがした。彼女の部屋にあった香なのか、服から移ったのか、わからなかった。
「面白かったですか」
「はい」
「最後、ちょっと急じゃありませんでした?」
「私は、あのくらい急いで行ってもいいと思いました」
私は顔を上げた。
エルナさんは、包みに使った紐をくるくると指へ巻いていた。
「離れるとわかってから、言いたかったことが増えるんですね」
「そういうこと、あるのかもしれません」
「リゼさんは?」
問い返されるとは思っていなかった。
私は本を棚へ戻しながら、答えを探した。
祖母が引っ越す日に、仕事の注意を聞きすぎて、一緒に朝食を食べる時間を逃したこと。神殿を去るときに、厨房の人に挨拶をしなかったこと。
それよりも今、治療が終わったらこの人はどこへ行くのだろうと考えていること。
「あります」
短く答えると、エルナさんは紐を解いた。
「では、この紐は、いただいてもいいですか」
「ご自分で持ってきた紐ですよね」
「あ、そうでした」
彼女が笑った。
私はそれにつられて笑いながら、何かをごまかされたような気もした。
馬車を待つ間に、道具を確かめる。
左の親指には、薄い布を巻いた。傷は塞がり始めている。今日は針を台へ固定し、動かすのは右手だけだ。重い器はダンさんが運んでくれる。
用意したのは、銅の深皿が四つ。
それぞれの外側へ銅線を巻き、ひとつずつ番号をつけてあった。最初の鈴のように、途中で足りなくなるわけにはいかない。
エルナさんは、番号を声に出して確かめた。
「一、二、三、四」
「ありがとうございます」
「ほかには?」
「エルナさんご本人が、朝食を食べていること」
「食べました。リゼさんは?」
「今、一緒に食べたでしょう」
彼女がうなずいた。
ちゃんと確かめるというのは、ときどき、こういう馬鹿みたいな会話になる。
私はそれを、少し気に入っていた。
予備の石の部屋には、六人の神官が集まっていた。
昼の一時間だけ、街へ送る力の一部を予備へ回す。その間に、指輪へ戻る知らせを確かめる。今日の試験では、指輪を外さない。
ダンさんが何度も説明したことを、最後にもう一度、全員で確認した。
エルナさんは柵の内側に置かれた椅子へ座った。
私は隣の台に道具を並べ、彼女の右手を布の上へ載せてもらう。
マレイさんは反対側へ座った。イルマさんは戸口の近くで、通路を空けている。
いつもの店と違い、私が使える場所は限られていた。
銅皿を置く位置が遠い。
私はダンさんへ頼み、台を半歩ずらしてもらった。
その様子を見ていたエルナさんが、何も言わず手を引いた。道具を動かし終えるまで、待っていてくれた。
始める前の、小さなこと。
私たちは前より、それに時間を使えた。
「準備は?」
ダンさんに聞かれ、私はうなずいた。
エルナさんも、はい、と答える。
六つの台のうち、まず二つが光った。
床の溝へ、淡い光が流れていく。
私は指輪と、その先を見た。
神殿へ続く金の糸が、一度、細くなる。
エルナさんが息を吐いた。
「少し、軽いです」
その言葉が終わる前に、胸へ向かう糸が動いた。
灰色の腹が、内側へめくれる。
私は片手を上げた。
「戻っています。まだ増やさないで」
ダンさんが合図した。
流れが止まる。
けれど、指輪の中の輪は収まらなかった。もう一度、足りない、と告げるように、光が彼女の腕へ走った。
「痛いです」
エルナさんが言った。
私は待たずに、止めてください、と言った。
ダンさんが元の流れへ戻す。
マレイさんがエルナさんの肩へ手を置いた。
私は灰色の細い端をすくい、一番の銅皿へ移した。完全な解呪ではない。戻ってきた余分を、肌から離すだけだ。
金の輪が、ゆっくり元の形になる。
エルナさんは目を閉じていた。
「もう、引いています」
マレイさんの問いに、彼女が答える。
私は針を台へ戻した。
それから、ようやく自分の息を整えた。
試験は始まって、十分も経っていなかった。
部屋の中に、誰も動かない時間ができた。
私には、失敗したという言葉が浮かんだ。
ただ、その言葉だけでは、何もわからなくなる。
「ダンさん。予備の石から来た力は、足りていましたか」
私は聞いた。
「足りています。いまは、街への流れにも異常はありません」
「それでも、指輪が不足だと受け取った」
彼は、床の溝を見た。
私は図へ、さっき見えた輪を書いた。
戻る前に、一度、光が重なった。それから互いを押し退けるように、別れた。
「同じ量でも、届き方が違うんでしょうか」
エルナさんが目を開けた。
「私も、違うものが来た感じがしました。人の声が重なって、どちらを聞けばいいか、わからなくなるような」
ダンさんが、顔を上げた。
「拍が合っていないのかもしれない」
彼は奥の神官へ呼びかけた。
大きな神事では、何人もの祈りを揃えて力を送る。その揃え方を、予備の石と指輪のあいだでも調べられないか。
神官の一人が、手帳を開いた。
私はエルナさんの手を見る。
痛みは、いったん収まったらしい。でも、もう一度試してほしいとは言えなかった。
「今日は、ここまでにしましょう」
マレイさんが言った。
私はうなずいた。
エルナさんも、すぐにうなずいた。
誰も我慢を続けなかったことまで失敗に数えたら、次の試験も同じように急ぐことになる。
私は使った一番の皿を封じ、まだ空の三つを布で覆った。
午後、エルナさんが神殿の部屋で休んでいる間、私はダンさんたちと戻る光の形を比べた。
神官の一人が、小さな石を二つ机へ置いた。
同じ力を、少しずつ違う間で送ってみる。届く側の光が、明るくなったり、ぼやけたりする。
「歌がずれるようなものです」
彼は説明した。
「声は足りていても、合わせて聞けば、聞き取りにくい。指輪は、元の響きと違うものを、足りないと受け取っているのかもしれません」
私は椅子を買った日、エルナさんが歌の拍を取った指を思い出した。
ここでも、誰か一人が大きな力を出せば済むわけではなかった。
「合わせることは、できますか」
「できます。ただし、今の指輪の響きを、本人に教えていただく必要があります」
「今日は休んでもらっています。明日、聞きます」
私が答えると、彼はわかりました、と石を片づけた。
その手がゆっくりしていることに、私は少し救われた。
次の日も、部屋に人が集まった。
今度はエルナさんから力を奪う試験ではなく、彼女が自分で出せる、ごく弱い力に音を合わせる練習だった。指輪をいじらず、別の小さな石へ、掌を載せる。
エルナさんが、目を閉じた。
石が淡く光る。
隣の神官が送った光と、重なった。
最初は、二つの影が揺れるように見えた。
何度か間を変えると、ひとつになった。
「これです」
エルナさんが言った。
ダンさんは、すぐにその間隔を記録した。
私は横で、糸の輪が緩むのを見ていた。まだ完全な接続ではない。それでも昨日、押し返したときとは違う動きだった。
「見えました」
声に出すと、エルナさんが私へ向いた。
「同じですか」
「たぶん、同じところを、別の言い方で見ています」
彼女は胸へ手を当て、少し笑った。
その笑顔に、私は、もう少しだけ喜びかけた。
けれど部屋の外から、神官長の使いが来た。
昨日の試験の結果を受け、指輪を外すための本試験は認められない。
告げられた言葉は、短かった。




