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第十八話 ひとりでなくても店は

 翌朝、マレイさんは私の左手を診て、数日は細かな力仕事を減らすよう言った。

 傷そのものより、疲れた状態で同じ作業を繰り返すほうを気にしていた。

 私は反論しなかった。

 代わりに、今日の仕事の一覧を見せた。

「自分で全部やらなくてよいものを、分けました」

 マレイさんはそれを読み、私の顔を見た。

「いいですね。守れそうですか」

「見張りが、います」

「見張りではありません」

 エルナさんが隣で言った。

 私は言い直した。

「手伝ってくれる人がいます」

 その言葉なら、彼女も否定しなかった。

 午前中は、受け取り日の連絡をした。

 怒られると思っていた客の一人は、祭りで忙しいから、むしろそのほうが助かると言った。別の人は予定を変えるのに困ったが、代わりに使える普通の留め具を貸すと納得してくれた。

 ドナさんには、針を折ったことまで知られて、手首を酷使した自分に言われたくないだろうけど、と笑われた。

 私は、その通りです、と答えた。

 仕事はなくならなかった。

 すべてが都合よく済んだわけではないけれど、一日延ばすと言っただけで、店が閉じることもなかった。

 昼に戸を閉めると、エルナさんが、机の端に残っていた封筒を差し出した。

「マレイからです。今朝、診察の前に預かっていたのですが」

 宛名は私だった。裏にある名前を見て、私は椅子へ座り直した。

 あの書記官の人からだった。

 封筒の中には、便箋が一枚入っていた。療養所を出す日付は、四日前になっている。マレイさんから、報告書を書いた人がこの町で店をしていると聞き、手紙を託したとあった。

 几帳面な字だった。

 以前は給金の受け取り欄の、自分が書く場所だけを見ていたので、その人の字を長く読むのは初めてだった。

 いまは午前中に少し歩ける。午後は椅子で休む。腕輪を使っていた頃より、できる仕事は少ない。けれど、手を動かして疲れたときに、疲れたとわかるようになった。

 私は、途中で便箋を置いた。

 エルナさんは、向かいで待っていた。

「回復、しているそうです」

 私が言うと、彼女の肩が少し下がった。

「よかった」

「はい」

 下のほうに、別のことが書いてあった。

 休むよう言われたとき、最初は腹が立った。皆が自分の仕事を取り上げようとしているのだと思った。もう少し早く終えれば休めると考えて、次の仕事を探していた。

 便箋の端を持っている左の親指に、布が巻かれていた。

 私はそこから目を逸らせなかった。

 最後の一行は、お詫びだった。

 食堂で手の震えについて尋ねられたときに、余計なことを言わないでほしいと答えたのを、ずっと覚えている、と。

 私はその会話を、忘れていた。

 匙の音をよく覚えているのに、自分が言われたことのほうは、どこかへ落としていたらしい。

 手紙を膝へ置いた。

「返事を、書かなくちゃ」

「いま書きますか」

 私はいつものように、はいと言いかけた。

 台所では、朝の残りの粥が温まっていた。

「ご飯を食べてからにします」

 エルナさんは立ち上がった。

「では、よそいますね」

 彼女は手紙を読ませてほしいとは言わなかった。誰のものかも、何についてかも知っているのに、私が畳むまで机を空けていてくれた。

 私たちは、鍋に残っていた分を食べた。

 底のほうが少し焦げていて、私は自分の椀へ多めによそったことを見抜かれた。

「そのくらいなら、私も食べられます」

「癖なんです。一人だと、全部自分のなので」

 エルナさんは自分の椀を、私の椀へ近づけた。

 ひと匙、焦げたところを移す。

「どうですか」

「香ばしいです」

「気を使ってません?」

「少し」

 正直な答えがおかしくて、私は笑った。

 食べ終えたあと、棚の引き出しから、便箋を出した。

 最初の一枚には、手紙をいただいて安心しました、と書いた。そのあとが続かなかった。

 安心という言葉では、足りない気がした。

 あの人が午前中に少し歩けるようになったことを、私の仕事が正しかった証拠として喜びたくはなかった。でも、自分が書いたものが読まれていたと聞いて、嬉しくなかったわけでもない。

 私は鉛筆を持ったまま、半ばほどまで書いた行を見た。

 エルナさんが、洗った椀を伏せて戻ってきた。

「難しいですか」

「はい。私、ものに値段をつけるときは、もっと早いんですけど」

「値段を決めなくていいなら、ゆっくりでも」

 それもそうだった。

 私は最初の一行を残し、次へ進んだ。

 報告書を読んでもらえたと知ったこと。いまは祖母の店を継いでいること。店には妙な品が来るので、こちらもまだ勉強していること。

 謝らないでください、と書いて、一度止まった。

 謝りたくて手紙をくれたのなら、その言葉まで押し返さなくてもいい。

 お手紙、確かに受け取りました、と言い直した。

 署名をして、紙を乾かす。

 エルナさんは、それを覗き込まない距離で、私の左手を見ていた。

「痛みますか」

「今は、そんなには」

「この手も、誰かのお昼の席で震えていたかもしれないんですね」

 私は彼女を見た。

 昨夜の言い争いを持ち出すような声ではなかった。

 彼女は、自分のことのように困った顔をしていた。

「見つけてもらえて、よかったです」

 私は言った。

 エルナさんの指が、布に触れないところで、私の手の甲を撫でた。

 短い動きだった。

 私は便箋を畳むのを、ほんの少しだけ遅らせた。

 午後、ダンさんが設備の図を持ってきた。

 今日は地下の保管室まで運ぶ金属もあった。イルマさんと二人で運んでくれる間、私は机に座ったまま、必要な厚みを紙へ書いた。

 立ち上がりかけるたび、エルナさんに見られている気がした。

 実際には、彼女は台帳を読んでいた。

 自分で座り直す。

 ダンさんが戻ってきて、石と指輪を結ぶところの記録を広げた。

「切り替えるとき、最初に戻るのは、ここです」

 彼が指したのは、私が胸へ伸びる糸を描いた場所に近かった。

 私は図へ、別の色で輪を足した。

「長く同じ状態で使ったので、指輪が今の流れを保とうとしている。外へ戻したら、足りないと考えて、身体のほうを引くのかもしれません」

「止めようとすると、余計に力を取る?」

 エルナさんが尋ねた。

「そう見えます。だから、先に足りている状態を作って、その知らせが指輪へ届くか、確かめたいです」

 私は紙の端へ、小さな鈴を描いた。

 最初の晩に使ったものと同じ形だった。

「それでも戻ってくる分は、器へ受ける。一度に全部を動かさないで、短いところから」

 ダンさんが頷いた。

「予備の石と、供給する神官を集めます。まず、指輪は外さずに。少しだけ流れを変える試験なら、許可が取れるかもしれません」

 エルナさんは、自分の指輪を見た。

「私が、することは?」

「いつ力を送っているのか、教えてください。引かれたときと、自分で送るときが、違うなら」

 彼女は黙って手を重ねた。

 次に顔を上げたとき、その目は、私が初めて店で見た疲れた目とは違っていた。

「違います。祈るときには、自分で、押し出す感じがします。眠れない夜は、閉じようとする手を、開かされるような」

 私はその言葉を書いた。

 ダンさんも、別の紙へ写した。

 誰の身体で何が起きているのかを、本人の言葉で知った。

 図は、少しだけ読みやすくなった。


 夜、私が本を読んでいると、エルナさんが隣の椅子へ座った。

 今日は私の左手に負担をかける処置はしていない。指輪の確認は道具を台へ固定し、マレイさんに立ち会ってもらった。枝はすぐ眠りを妨げるほどではなく、明日の試験前にもう一度調べることになっている。

「最後まで、読みました?」

 エルナさんが聞いた。

「あと、十頁くらいです」

「では、邪魔を」

「いてください」

 思ったより早く、声が出た。

 彼女が私を見た。

「ひとりで読むより、ここで待っていてもらったほうが、ちゃんと終われそうなので」

 苦しい理由だと、自分でも思った。

 エルナさんは、問い返さなかった。

「はい」

 彼女は別の冊子を膝へ置いた。旅の紀行文だった。

 二人で、別々の頁を読んだ。

 私は最後の場面に辿り着いた。手紙を書いた主人公は、返事を待たずに旅に出る。遠くの港で会った女の人に、なぜ来たのかと聞かれ、会いたかったから、と答える。

 そんなに簡単に言えるものだろうかと思った。

 本を閉じると、隣でエルナさんが顔を上げた。

「どうでした?」

「よかったです」

「それは、楽しみです」

 私は本を差し出した。百頁ほどの短い物語を、何日もかけて読んでいたことに気づいた。

 彼女が受け取るとき、表紙に私の指の跡がついていないか、妙に気になった。

「返すのは、急がなくていいです」

 エルナさんが、その言葉を聞いていた。

「でも、返しには来ます」

「もちろんです。売り物ではなく、私の本なので」

 そういう意味で言ったのではない。

 そういう意味で受け取られたのでもないかもしれない。

 確かめないまま、私たちはしばらく向かい合っていた。

 やがて彼女が本を胸に寄せ、明日は早いので、と立ち上がった。

 私も灯りを落とした。

 眠るために仕事をやめる夜が、ひとつ増えた。

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