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第十七話 仕事をなくすのが怖かった

 エルナさんが帰ったあと、私は店の奥で一人、預かった品を調べ始めた。

 大きな処置はしない。今日は、どの品が先に扱えるか、順番を決めるだけだ。

 そう決めていた。

 守り袋から、金の留め金を抜く。安全な位置へ置く。中敷きには札をつけ、足の状態を診てもらうまで使わないよう伝える紙を書く。

 その次に、ドナさんの姉が預けた腕留めを広げた。

 石を外すための金具が、少し固かった。

 もう少しだけ、と力を加える。

 右の手首が重い。

 私は腕を回し、作業を続けた。

 気づくと、時計は十時を回っていた。

 エルナさんの手帳の写しが、机の端に置いてある。

 何時に眠ったか。何を食べたか。痛むところがあったか。

 私は自分の夕飯について考え、まだ食べていないことに気づいた。

 食べてから続きをやればいい。

 けれど、金具をいま緩めれば、明日ドナさんに返せる。姪が贈った品を、早く安心して使えるようにしてあげたかった。

 針の先で、糸を固定する。

 手元の灯りを近づける。

 その拍子に、赤い糸が皿の縁へ引っかかった。

 力を抜くのが遅れた。

 ぱちん、と針が折れた。

 鋭い端が左手の親指を擦った。

 痛みより先に、血を見た。

 私は布を押し当て、石を木の台へ戻した。残った針を挟み具で取り、糸を留める。呪いは器から出ていない。

 そこまで済ませて、椅子へ座った。

 掌に、細かな震えが残っていた。

 大丈夫だ、と考えかけた。

 その言葉が頭に浮かんだこと自体が、嫌だった。

 私は作業中の札を立て、道具箱を閉じた。

 休む。

 決めたのに、すぐに立ち上がれなかった。

 自分が仕事を止めたという事実を、飲み込むまで少し時間がかかった。

 そのとき、戸を叩く音がした。

 私は返事をしてから、時計を見た。

 こんな時刻の客は、たいてい、困った品を持ってくる。

 戸口には、エルナさんがいた。

 後ろにイルマさんがいる。馬車の灯りが、通りの石を照らしていた。

「指輪が、また?」

 私が尋ねると、エルナさんは首を振った。

「今日は泊まる予定にしていたのを、忘れていませんか。神殿で着替えと、マレイの報告を受け取ってから来ると」

 私は、夕方の会話を思い出した。

 聞いていた。

 自分で、戸は開けます、と答えた。

 その約束を、すっかり作業の下へ押し込んでいた。

「すみません。ちょっと、手が離れなくて」

 エルナさんの目が、私の左手で止まった。

 布の端が赤くなっている。

 彼女の顔から、表情が消えた。

「見せてください」

「浅い傷です。石も、ちゃんと」

「傷を、見せてください」

 私は、それ以上説明せず、彼女を中へ入れた。


 傷は、やはり浅かった。

 イルマさんが持っていた手当ての道具で布を替え、朝、マレイさんにも診てもらうことになった。指は動く。呪いの糸もついていない。

 それを確かめたあとも、エルナさんは笑わなかった。

 私は、急に店が狭くなったような気がした。

「そんなに心配しなくても」

 言いかけたところで、彼女が顔を上げた。

「夕飯は、食べましたか」

「これから」

「最後に寝たのは?」

「昨夜です」

「何時間?」

 私は黙った。

 エルナさんは机の上を見た。開いた台帳、使い終えた金属、空のカップ。椅子の脇に置いたパンの包み。

「私が同じことをしていたら、リゼさんは止めますよね」

「私は、三か月眠れなかったわけじゃ」

「では、何日ならいいんですか」

 言葉が、ぶつかった。

 私は顔を上げた。

 エルナさんは怒っていた。

 涙を浮かべてもいないし、私に触れようともしていなかった。両手を膝に置き、こちらの答えを待っている。

「昼間、人が多かったんです。予定より溜まってしまって」

「はい。私もいました」

「この仕事で、暮らしてるので」

 その言葉が口から出たとき、私は、まずいと思った。

 エルナさんの目が揺れた。

「私には、わからないと思っていますか」

「そうじゃなくて」

「私には、食べなくても困らない暮らしがあるから?」

 私は返事を見つけられなかった。

 いちばん言いたくなかったことを、言ったみたいになっていた。

 イルマさんが立ち上がった。

「湯を、足してきます」

 空になっていない湯差しを持って、台所へ行く。

 私たちの間に、作業台の角があった。

 私は左手に巻いた布を見た。

「違います。エルナさんが、わからないからじゃないです」

 声を出すと、喉がつまった。

「……また、仕事を失くすのが嫌なんです」

 エルナさんが、顔を上げた。

「客が来てくれて、頼まれて。できませんって言ったら、もう来なくなるかもしれない。神殿のときは、正しいと思ったことを言えば、調べてもらえると思ってました。でも、次の日から机がなくなって」

 私は口を閉じた。

 そんなことを話すつもりはなかった。

 自分で店を始めたから、もう平気だと思っていた。祖母の箱を片づけ、値段を決め、毎日戸を開ける。それだけで、取り戻せたつもりだった。

 一昨日、広場であの神官が名札に手を伸ばした。

 その瞬間から、私は、また机がなくなるのではないかと考えていたのだ。

「だからって、今日全部やる必要がないのは、わかってます」

 私は続けた。

「わかってるのに、止められなくて。針を折って、やっと」

 最後は声が小さくなった。

 エルナさんが椅子を引いた。

 机の角を回り、私の横へ来る。

「私は、止めてほしかったんです」

 彼女はそう言った。

「自分では、どこまでつらいと言ってよいのかわからなくて。ここへ来たら、眠りたいだけでいいと言ってもらえた。それが、嬉しかった」

 私は、巻いた布へ指を添えた。

「でも、リゼさんが食べずに待っていたなら、私は一人で夕飯を食べてこなければよかった。せめて、途中で買ってこられました」

「言ってくれれば、ですね」

「はい」

 彼女の声が、ようやく少し柔らかくなった。

「手伝えることがあるか、私にも選ばせてください」

 私は、うなずいた。

 返事をしただけでは何も変わらないと思い、机の上の預かり票を集めた。

「明日、受け取りの予定を延ばす連絡をします。急ぎの品を、マレイさんに確かめてもらって。腕留めは、明後日まで」

「お知らせを書くのは、私にもできます」

「お願いします。私が、渡す相手と日付を確認します」

 エルナさんが、空いている紙を取った。

 私はその手を止めた。

「でも、明日です」

 彼女は目を丸くした。

 それから、紙を机へ戻した。

「そうですね」

 私は初めて、少し笑えた。

 台所から、イルマさんが鍋を持って戻ってきた。昼に作っておいた煮込みを温めてくれたらしい。

「すぐ食べられます」

「ありがとうございます」

「お二人とも、明日は朝食を抜かないでください」

 騎士がそう言ったので、私とエルナさんは同時に返事をした。

 言い争いが、まるでなかったことにはならなかった。

 何かを言う前に、一拍考える時間が残った。

 けれど、それは居心地の悪さだけではなかった。相手が何を怖がっていたのか、さっきまでよりわかっていた。

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