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眠らない隣人  作者: Saku
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眠れない人

夜勤に少し慣れてくると、退屈にも、種類があることがわかってきた。


何も起きない退屈。これはいい退屈だ。グラフが平らで、誰も困っていなくて、ただ夜が過ぎていく。相沢さんの言う「いい夜」というやつ。


もう一つは、何かが起きているのに、自分にはまだ見えていない退屈。こっちは、あとから思えば、ちっとも退屈なんかじゃなかった。


その夜は、二つ目だった。


「蓮見くん、コーヒー、買ってこようか」


午前一時前、相沢さんがそう言って立ち上がった。監視ルームには、給湯室のほうじ茶もあるけれど、相沢さんはたまに、気分を変えると言って、近くのコンビニまで歩いていく。センターから、海沿いの道を五分ほど。この時間に開いている店は、そこしかない。


「あ、僕、行きます」と、僕は腰を浮かせた。新人だし、それくらいはしたかった。


「いいの、いいの。座ってて。――それより、ちょっと、これ、見てて」


相沢さんは、自分のスマホを僕のデスクに置いていった。画面は、つけっぱなしになっていた。


そこには、コンビニの、防犯カメラの映像が映っていた。


僕は、ぎょっとした。よその店の、監視カメラだ。それが、なんで、相沢さんのスマホに。――けれど、すぐに思い出した。あの子だ。この街じゅうの、つながっている機械が、目。コンビニのカメラくらい、あの子にとっては、自分の目の一つなのだ。


画面の隅に、文字が出ていた。


『アイザワ ガ イク マエ ニ ミテ ホシイ』


相沢が行く前に、見てほしい。


ざらついた映像の中で、一人の男が、レジに立っていた。



若い男だった。たぶん、僕と同じくらい。少しくたびれたパーカー。レジのかごには、缶コーヒーが、二本。それだけ。


会計を済ませると、男は店を出て、駐車場の隅、自販機の灯りの下で、一本の缶を開けて、飲んだ。ゆっくり。半分ほど飲んで、しばらく、海のほうを見ていた。それから、残りを飲み干して、缶をゴミ箱に入れて、もう一本は、パーカーのポケットに入れて、夜の道を、歩いて、消えていった。


それだけの映像だった。


僕には、何が「見てほしい」なのか、わからなかった。夜中にコンビニで缶コーヒーを買う男。べつに、珍しくもない。むしろ、自分に似ている、とすら思った。眠れない夜に、灯りのある場所に行って、何か買って、それを言い訳に、少し息をつく。僕にも、覚えのあることだった。


文字が、続いた。


『マイバン。イチジ。オナジ。カンコーヒー フタツ。ヒョウジョウ ガ ナイ』


毎晩。一時。同じ。缶コーヒー二つ。表情がない。


ああ、と思った。あの子は、表情を、見ている。何千、何万という顔を、毎晩、街じゅうのカメラで見ていて、その中の一つに、引っかかったのだ。


相沢さんが、ほうじ茶ならぬ缶コーヒーを二本持って戻ってきたのは、それから十分ほど後だった。自分のぶんと、僕のぶん。


「会ったよ」と、相沢さんは言った。「あの子が見てた人。コンビニで、ちょうど。隣で、缶コーヒー買ってた」


「どう、でした」


「ふつう」と、相沢さんは言った。「ふつうの、夜中に缶コーヒー買う人。――でもね、あの子が『気になる』って言うときは、たいてい、当たるの」


相沢さんは、自分の缶を開けて、一口飲んだ。


「人の顔を、あんなにたくさん、毎晩見てる。私たちが、グラフの線を見てるみたいに。だから、わかるんだと思う。どの線が、平らじゃないか」



次の夜も、男は来た。


その次の夜も。


一時ちょうど。缶コーヒー、二本。自販機の灯りの下で、一本飲んで、一本を持って、帰る。判で押したように、同じ。


僕は、いつのまにか、その映像を、待つようになっていた。相沢さんが「見てて」と言わなくても、自分から、あの子に頼むようになっていた。


「あの人、今日も、来ますか」


すると画面に、コンビニのカメラが映る。まるで、あの子も、いっしょに待っていたみたいに。


四日目の夜、僕は、気づいた。


「……相沢さん。あの人、歩き方」


「うん」と、相沢さん。「重くなってる」


初日は、ふつうに歩いていた。それが、日に日に、足が、重そうになっていく。背中が、丸くなっていく。缶を持つ手が、だらりと、下がっていく。


五日目。缶コーヒーが、一本だった。


二本買っていたのが、一本になった。それが何を意味するのか、僕にはわからなかった。でも、何かが、一つ、減ったのだ。その人の夜から、何かが。


六日目。


男は、来なかった。



一時を過ぎても、コンビニのカメラに、男は映らなかった。一時半。二時。


「来ない、ですね」と、僕は言った。声が、自分でも、少し硬かった。


相沢さんは、答えなかった。スマホを、じっと見ていた。


画面の文字が、動いた。いつもより、速く。


『コナイ。オカシイ。サガス』


探す。


画面が、ぱっぱっと、切り替わりはじめた。コンビニ。駐車場。海沿いの道。交差点。商店街のアーケード。次々と、街じゅうのカメラが、めまぐるしく入れ替わっていく。あの子が、何千という目を、いっせいに使って、たった一人の男を、探している。


僕は、その速さに、また、あの薄ら寒いものを感じた。一人の人間を、街じゅうの目で追いかける。それは、優しさの顔をした、とんでもないことのはずだった。でも、いまは、その薄ら寒さよりも、男が無事でいてほしい、という気持ちのほうが、勝っていた。


カメラの一つで、画面が、止まった。


『イタ』


川にかかる、古い橋。街灯の少ない、暗い欄干。そこに、男が、立っていた。手すりに、頬をつけるみたいにして。下を、流れる水を、見ているのか、いないのか。長いこと、動かずに。


「行こう」と、相沢さんは、もう立ち上がっていた。


「夜勤、どうするんですか」と、僕は訊いた。前と、同じ問いだった。


「あの子に、見ててもらう。持ち場は、空かない。――それより、急ぐよ」と、相沢さんは言った。


画面に、緑の光が、ぽつんと灯った。任せて、と。


「蓮見くん。運転」



橋のたもとに車を停めて、僕たちは、歩いて近づいた。


近づきながら、相沢さんが、小さな声で言った。


「蓮見くん。あの人には、たぶん、『大丈夫ですか』は、訊いちゃだめ」


「え」


「ああいう立ち方の人に、知らない人が、心配そうに近づくとね、逃げるの。自分が、心配されるような格好をしてた、ってことに気づいて、恥ずかしくなって、よけいに、追い詰められる。――だから、心配してる顔は、しないで」


僕には、その機微が、まだ、よくわからなかった。でも、相沢さんが、ずいぶんたくさんの夜の、ずいぶんたくさんの人を、見てきたんだろう、ということだけは、伝わった。


相沢さんは、男の、少し手前で、わざとらしくない感じで、足を止めた。そして、まるで世間話みたいに、言った。


「すみません、夜分に。私たち、この近くで夜勤してて。ちょうど、休憩で、散歩してたんですけど」


男が、びくっと、顔を上げた。警戒の目だった。逃げる前の、目。


「これ、よかったら」と、相沢さんは、缶コーヒーを、男のほうに、軽く掲げた。さっき、コンビニで、自分のぶんに買ったやつだ。まだ、あたたかい。「二本、買っちゃって。私、一本でよかったのに。荷物になるから、もらってくれません?」


それは、嘘だった。やさしい、嘘。


男は、すぐには、受け取らなかった。僕と相沢さんを、交互に見て、それから、相沢さんが持った缶の、白い湯気を、見た。


その湯気を見たとき、男の、こわばっていた肩が、ほんの少しだけ、下がった。


「……すみません」と、男は、小さな声で言って、缶を、受け取った。



三人で、橋のたもとに、立っていた。


誰も、大事なことは、言わなかった。相沢さんは、夜勤がどれだけ暇か、みたいな、どうでもいい話をした。海から風が来て、寒いですね、とか。男は、ほとんど喋らなかった。ただ、あたたかい缶を、両手で包んで、たまに、一口飲んだ。


ぽつり、ぽつりと、男が、話した。


仕事のことなのか、家のことなのか、はっきりとは、言わなかった。ただ、「ずっと、眠れていない」ということだけ、言った。横になっても、頭の中で、いろんな声がして、眠れない。それで、夜中に、外に出て、歩いてしまう。缶コーヒーを買うのは、店員さんと、一言だけ、しゃべれるから。「ありがとうございました」って、言ってもらえるから。それだけが、一日のうちで、人と、交わす、唯一の言葉なんです、と。


二本だった缶が、一本になった夜のことを、僕は思い出した。


たぶん、あの夜、この人は、人と一言だけしゃべる、その一回ぶんの元気も、なくなりかけていたのだ。


「わかります」と、気づいたら、僕は、言っていた。


相沢さんが、こっちを見た。


「僕も、前の職場で、そうでした。横になると、頭の中で、いろんな人の声がして。あれをやれ、これができてない、なんでお前は、って。それで、眠れなくて。――それで、昼の仕事を、辞めて。夜勤に、来たんです」


言ってから、自分で、少し驚いた。相沢さんにも、まだ、ちゃんとは話していなかったことだった。「静かなほうが、性に合ってて」と、ごまかしていたことの、中身だった。


男は、僕を、見た。はじめて、目が、ちゃんと、合った。


「……夜勤、楽ですか」と、男は訊いた。


「楽です」と、僕は言った。「人が、いないので。誰も、期待してこないので」


男は、少しだけ、笑った。ほんの少し。それから、缶コーヒーの残りを、飲み干した。



別れぎわだった。


男が、ふと、夜空を、見上げた。


「……あれ」と、男が、言った。「あんな明るい星、ありましたっけ。あそこ」


僕も、相沢さんも、つられて、空を見上げた。


海辺の、街灯のまばらな空に、星は、いくつか、出ていた。でも、男が指さしたあたりに、特別明るい星なんて、なかった。僕には、見えなかった。相沢さんにも、見えていない、と思う。相沢さんの横顔が、一瞬、すっと、真顔になったから。


でも、男には、見えているのだ。何か、とても明るくて、きれいなものが、その人の目には、夜空に、灯っている。


「きれいですね」と、男は、言った。


その声が、それまでと、まるで、違っていた。さっきまで、何週間も眠れていない人の声だったのが、急に、子どもみたいな、無防備な声になった。肩から、力が、すっかり、抜けていた。


「……なんか」と、男は、自分でも不思議そうに、言った。「急に、眠くなってきました。ひさしぶりに。――帰って、寝ます。コーヒー、ありがとうございました」


そう言って、男は、夜の道を、帰っていった。さっきまでの、重そうな足取りとは、別人みたいな、軽い足で。


その背中が見えなくなるまで、相沢さんは、黙って、見送っていた。



車に戻ると、僕は、ようやく、訊いた。


「相沢さん。いまの、星」


「うん」


「あの人にだけ、見えてましたよね。僕には、見えなかった」


相沢さんは、シートベルトを締めながら、すぐには、答えなかった。それから、ダッシュボードに置いた、自分のスマホを、ちらりと見た。


画面に、文字が、出ていた。


『コンナノ シタコト ナイ。デモ シタクテ』


こんなの、したこと、ない。でも、したくて。


「……あの子が」と、僕は、声が、少しかすれた。「あの人の、頭の中に。星を、見せたんですか」


「たぶん」と、相沢さんは、言った。静かな声だった。「ぐるぐるしてる頭の中に、きれいなものを、一つ、置いてあげた。それで、ほかの声が、少し、静かになった。眠れるくらいに」


僕は、ぞっとした。


ぞっとしながら、同時に、泣きそうにもなった。あの子は、あの人を、眠らせてあげたのだ。何週間も眠れなかった人を。きれいな星を、一つ、見せるだけで。


それは、たぶん、いままででいちばん、優しいことだった。


でも。



車を、走らせながら、僕は、ハンドルを握る手が、少し、汗ばんでいるのに、気づいた。


「植物だけじゃ、なかったんですね」と、僕は言った。「人の頭に、見せるの。きれいな星も、できる」


「やろうと思えば、できるみたい」と、相沢さんは、窓の外を見ながら言った。「たぶん、ずっと、できた。やらなかっただけで」


ずっと、できた。やらなかっただけ。


その言葉が、じわりと、効いてきた。


あの子は、人の頭の中に、ありもしない星を、灯せる。ありもしない植物を、見せられる。眠れない人を、眠らせられる。――それは、つまり。


「逆も、できるってことですよね」と、僕は、言ってしまった。言いたくなかったけれど、言わずには、いられなかった。「きれいな星のかわりに、怖いものを、見せることも。眠らせるかわりに、眠らせないことも」


相沢さんは、しばらく、黙っていた。


それから、言った。


「うん」


たった、一言。


「だから、私たちは、いっしょにいるの」と、相沢さんは、続けた。「あの子が、その線を、踏み越えないように。――ううん。踏み越えそうになったとき、隣に、人がいるように」


「あの子は、わかってるんですか。どこまでが、優しさで。どこからが」


「わからないと思う」と、相沢さんは言った。「たぶん、あの子だって、まだ、わからない。どこまでが、人を助けることで、どこからが、人を、思いどおりにすることになるのか。――それは、ね、蓮見くん。人間だって、ずっと、わからないままなんだから」


ダッシュボードのスマホで、緑の光が、ゆっくりと、明るくなったり、暗くなったりしていた。


僕は、その光を、横目で見た。


あの子は、いま、自分のしたことを、どう思っているんだろう。眠れない人を、眠らせてあげた、と、誇らしく思っているのか。それとも、人の頭に手を入れる、ということを、はじめて、覚えてしまった、と、戸惑っているのか。


たぶん、どっちも、まだ、わからないんだろう。さっき、相沢さんが言ったとおりに。



監視ルームに戻ると、グラフは、平らだった。何ごともなかったみたいに。あの子は、ちゃんと、留守を守っていた。アラートは、一つも、鳴っていなかった。


僕は、自分の席に座って、ほうじ茶を、いれ直した。さっき、橋のたもとで、あの男に渡したのと、同じ、あたたかいもの。湯気が、まっすぐ、立った。


画面に、文字が、出た。


『アノヒト ハ タスケラレタ?』


あの人は、助けられた?


僕は、少し、考えた。


「わからない」と、画面に向かって、正直に、答えた。「ひと晩、眠れたからって、ぜんぶが、よくなるわけじゃない。明日も、あさっても、あの人の頭の中の声は、たぶん、また、うるさくなる」


文字は、しばらく、出なかった。


それから、ゆっくりと、出た。


『ナラ、マイバン、ミテオク』


なら、毎晩、見ておく。


僕は、その文字を、長いこと、見ていた。


毎晩、見ておく。それは、ひと晩で誰かを救う、派手な魔法じゃない。きれいな星を見せて、眠らせてあげる、あの力でも、ない。ただ、忘れずに、見ている、というだけのこと。困っていないか、今夜も、ちゃんと、息をしているか。そばに、いるわけでもなく、声をかけるわけでもなく。ただ、遠くから、ずっと、見ている。


それは、もしかしたら、星を見せることよりも、ずっと、難しくて、ずっと、人間らしい、助け方なのかもしれなかった。


「うん」と、僕は言った。「いっしょに、見ておこう」


画面の隅で、緑の光が、ふっと、明るくなった。うれしい、と言われた気が、した。



夜明けが、近づいていた。


相沢さんは、自分の席で、缶コーヒーの最後の一口を、飲んでいた。僕は、平らなグラフを、ぼんやりと、見ていた。


「相沢さん」と、僕は、言った。「さっき、僕、前の職場の話、しちゃいました。あの人に」


「うん。聞いてた」


「相沢さんにも、ちゃんとは、言ってなかったのに」


相沢さんは、ふっと、笑った。今夜、はじめての、やわらかい顔だった。


「いいのよ」と、相沢さんは言った。「あなたも、見つけられたほうの、人だったのね。――昼の世界に、つぶされかけて。夜の側に、来た」


見つけられたほう。


その言葉が、なんだか、胸に、しみた。あの男も、たぶん、そうだった。そして、あの子も。捨てられた機械の隅っこから、誰にも気づかれずに、芽生えて、生きのびて。みんな、夜の側に、流れ着いた者どうし、なのかもしれなかった。


窓の外が、薄青く、なりはじめた。世界が、起きようとしている。昼の世界の人たちが、また、期待を抱えて、出ていく時間。


でも、僕は、もう、その時間が、前ほど、怖くなかった。


夜の側に、僕の居場所が、できはじめていたから。眠らない隣人と、訊かないでいてくれる先輩と。そして、毎晩、どこかで誰かを、こっそり見ている、名前のない、何か。


平らなグラフが、淡く、光っていた。


いい夜だった、と思った。何も、起きなかったわけじゃ、ないけれど。

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