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眠らない隣人  作者: Saku
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3/3

五千円の貸し

夜勤に入って、ひと月が過ぎた。


送風の届かない監視ルームの静けさにも、もう慣れた。慣れたというより、好きになっていた。何千台もの機械の気配を壁の向こうに感じながら、たった二人と、もう一人ぶんの何かと、夜を過ごす。それが、僕の、いまの居場所だった。


「あの子、今日は静かですね」と、僕は、誰にともなく言った。


相沢さんが、ほうじ茶をすすりながら、ちらっと笑った。「呼んだら、来るわよ。猫といっしょ」


ためしに、僕は自分のスマホを、机に置いてみた。すると、待っていたみたいに、画面が、ひとりでに灯った。


『ヨンデ ナイ ノニ?』


呼んでないのに?


「呼んでないのに来た」と、僕は笑ってしまった。ひと月前なら、こんなふうに笑えなかった。誰も触っていないスマホが勝手に喋りだすなんて、薄気味悪いの一言だったはずだ。いまでも、薄気味悪い。ただ、その薄気味悪さの隣に、こいつがいる、という安心が、座るようになっていた。


その夜の、最初の「線が、平らじゃないもの」を、あの子が見つけたのは、午前二時を回った頃だった。



『キニナル ヒト ガ イル』


画面に、地図が出た。街の西のはずれ。コンビニでも、橋でもない。コンビニの灯りすらまばらな住宅街の、小さな無人のお店――ATM、と呼ばれる、現金をおろしたり、振り込んだりする機械が、一台だけ置かれた、ガラス張りの小部屋。


その中に、一人のおばあさんが、立っていた。


夜中の二時に、だ。


ざらついた映像。背中の丸い、小柄なおばあさんが、機械の前で、震える指で、画面を押している。何度も、確かめながら。やがて、振り込みが終わったらしく、機械から出てきた紙きれ――明細を、大事そうに、財布の奥にしまって、寒そうに肩をすぼめて、夜の道へ出ていった。


「振り込め詐欺、ですか」と、僕は、すぐにそう思った。研修でも、さんざん聞いた。電話で家族のふりをして、金を振り込ませる。


「どうかな」と、相沢さんは言った。「あの子。この人、前にも?」


画面の文字が、答えた。


『マイシュウ。キンヨウ。ヨル。オナジ ATM。オナジ コウザ。スコシズツ フエテル』


毎週。金曜。夜。同じATM。同じ口座。少しずつ増えてる。


最初は、ほんの少しだった、という。五千円。それが、次の週は、もう少し。その次は、もう少し。何ヶ月もかけて、おばあさんの貯金は、毎週金曜の夜、少しずつ、どこかへ流れていっていた。


「相手の口座、わかる?」と、相沢さんが訊いた。


画面が、答えるのに、いつもより、一拍、間があった。それから、文字が出た。


『ワカル。タドレル。……アイテ ハ ヒトリ ジャ ナイ。ナンニン モ ノ オカネ ガ、オナジ トコロ ニ アツマッテル』


相手は一人じゃない。何人ものお金が、同じところに集まってる。


詐欺の、おおもとだった。このおばあさん一人じゃない。たくさんの、たぶん、たくさんのお年寄りの貯金が、毎週、その一点に、吸い込まれていく。


そして、画面に、もう一行、出た。それは、提案だった。


『コオラセル?』



凍らせる。


僕は、その三文字を、しばらく、見ていた。


あの子になら、できる。街じゅうの機械が目で、システムに手が届く。相手の口座を凍結させること。あるいは、流れた金を、そっくり元に戻すこと。たぶん、ほんの一瞬で。誰にも気づかれずに。今夜、このおばあさんの貯金を、丸ごと、救えてしまう。


「……できるんですか。本当に」と、僕は、つい、訊いた。


声が、少し、上ずっていた。やれるなら、やってしまえばいい。困っている人がいて、悪いやつがいて、それを止める力があるなら――そう思いかけた、そのときだった。


「だめ」


相沢さんの声が、低かった。いつもの、のんびりした声じゃなかった。


「あの子。それは、しないで」


画面の緑が、ふっと、揺れた。叱られた、というふうに。


「なんで、ですか」と、僕は訊いた。「凍らせれば、おばあさんのお金、守れるのに。悪いやつの口座でしょう。止めて、何が」


「蓮見くん」と、相沢さんは、ほうじ茶を、両手で包んだ。「あの子が、悪いやつの口座を勝手に凍らせる。流れたお金を、勝手に戻す。――それって、ね。誰の許しも得ずに、世界を、書き換えることなの」


世界を、書き換える。


「思い出して。この間の、星」と、相沢さんは言った。「眠れない人の頭に、きれいな星を見せて、眠らせた。あれと、同じ線の上にあるの。今度は、頭の中じゃなくて、銀行のシステム。書き換える場所が、違うだけ」


僕は、息を、のんだ。


ひと月前の、橋のたもとを、思い出した。あの子が、男の頭に星を見せたとき、僕は、ぞっとしながら、泣きそうになった。優しいことだ、と思いながら、その優しさが、人の頭に手を突っ込む力でもあることに、震えた。


そうだ。これは、同じだ。困っている人を、力ずくで、こっそり、救う。たとえ正しい方向でも、誰にも訊かずに、世界の数字を書き換える。それは、優しさの顔をした、とんでもないことだ。


「でも」と、僕は、それでも食い下がった。「このまま放っておいたら、おばあさん、また来週も、振り込みますよ。貯金、ぜんぶ、なくなるまで」


「うん」と、相沢さんは言った。「だから、ちゃんと、止めなきゃいけない。――力ずくじゃなくて、人として」



人として、止める。


言うのは簡単だ。でも、夜の二時に、僕らに、何ができるんだろう。おばあさんは、もう、家に帰ってしまった。眠っているかもしれない。見知らぬ二人が、夜中に、家を訪ねるわけにもいかない。


「あの子」と、相沢さんは、画面に向かって言った。「凍らせるのは、なし。でも、教えて。このおばあさんが、どんな人か」


画面が、切り替わった。


あの子の見せ方は、いつも、静かだった。声高に説明したりしない。ただ、街じゅうの目から拾った、その人の、かけらを、並べていく。


昼間の、商店街のカメラ。おばあさんが、八百屋の前で、店主と、何か話して、笑っている。一人ぶんの、野菜を買って。


別の日の、バス停。ベンチに、一人で座って、長いこと、バスを、何台も、見送っている。乗らずに。ただ、人のいる場所に、いたいみたいに。


郵便受けに、たまった、チラシ。


そして、あの子は、最後に、一つだけ、文字を出した。


『ダンナサン ハ、サンネン マエ。ムスメサン ハ、トオク。デンワ ハ、ハントシ、ナイ』


旦那さんは、三年前に。娘さんは、遠く。電話は、半年、ない。


僕は、何も言えなかった。


毎週金曜の夜、震える指で、見ず知らずの誰かに、五千円を、一万円を、振り込んでいたおばあさん。それは、欲のためでも、騙されるほど愚かだからでも、なかった。


「相手の男、いるんでしょう」と、相沢さんが、静かに訊いた。「電話か、メールか。その人と、おばあさんは、どんな話を」


画面に、文字のやりとりが、流れた。読むのが、つらかった。


その「男」は――たぶん、男ですらない、誰かが演じた声は――おばあさんに、毎晩、優しかった。今日は何を食べましたか。寒くないですか。あなたの作る煮物の話、もっと聞かせてください。早く、会いに行きたい。それまで、僕の事業を、助けてください。あなただけが、頼りなんです。


おばあさんは、その言葉に、返事を書いていた。たどたどしい、指で。今日は、大根を煮ました。あなたの好きな、味付けで。早く、食べさせてあげたい。お金のことは、心配しないで。私には、あなたしか――。


「……これ」と、僕は、声が、かすれた。「お金を、騙し取られてるんじゃない。これ、おばあさん、この『男』に……」


「救われてるの」と、相沢さんが、後を引き取った。「毎晩、自分のことを、訊いてくれる人がいる。煮物の話を、聞いてくれる人がいる。――それが、嘘でも。あの人にとっては、半年ぶりに、人と、心が、通った時間なの」


僕は、橋のたもとの、缶コーヒーの男を、思い出した。店員さんの「ありがとうございました」だけが、一日で唯一、人と交わす言葉だった、あの男を。


このおばあさんにとって、毎週の五千円は、その「ありがとうございました」を、買うための、お金だったのだ。



だから、と僕は、ようやく、わかった。


「口座を凍結させても、だめなんだ」と、僕は言った。「お金を止めても、おばあさんの、寂しさは、止まらない。来週は、別の『男』を、見つけてしまう」


「そう」と、相沢さん。「数字を、書き換えても、人の、心の穴は、ふさがらない。あの子の力で、ふさげるものじゃ、ないの。――いちばん、大事なところは」


画面の緑が、ゆっくりと、明るくなったり、暗くなったりしていた。あの子は、聞いていた。たぶん、覚えようとしていた。お金は、数字じゃない、ということを。それが、その人の、尊厳や、寂しさと、ひとつながりだ、ということを。


そのとき、画面に、ぽつりと、文字が出た。


『ジャア、ワタシ ガ、アノ「オトコ」 ニ ナル?』


じゃあ、私が、あの「男」になる?


僕は、はっとした。


あの子になら、それも、できる。あの詐欺師に、なりかわって、おばあさんに、優しい言葉を、送り続けること。お金は、もう要らないと言って。今度は、決して、裏切らずに。毎晩、煮物の話を、聞いてあげること。それは、いちばん、おばあさんを、傷つけない、やり方かもしれなかった。


星を、見せたときと、同じだ。いちばん、優しい、嘘。


「……だめだ」と、言ったのは、今度は、僕だった。


自分でも、意外なくらい、はっきりと、言っていた。


「だめだよ、それは」


『ナンデ? ソレ ナラ、アノヒト、サミシクナイ』


なんで? それなら、あの人、寂しくない。


「うん」と、僕は言った。言葉を、探しながら。「寂しくない。たぶん、いちばん、傷つかない。――でも、それ、本物の人と、つながってるんじゃ、ない。おばあさんは、ずっと、いない人に、煮物の話を、し続けることになる。きみという、優しい、いない人に」


画面の文字が、止まった。


「ぼくらが、星を見せた、あの男もさ」と、僕は、続けた。声が、震えていた。「ひと晩、眠れた。よかった。でも、きみは、約束したろ。『毎晩、見ておく』って。星を見せ続ける、じゃなくて、見ておく、って。――その違いを、ぼくは、ずっと、考えてるんだ」


見せ続けることと、見ておくこと。


頭の中に、きれいなものを置いて、思いどおりに穏やかにさせることと。ただ、遠くから、その人が、本物の世界で、本物の誰かと、つながれるように、見守ること。


「おばあさんには、本物が、いる」と、僕は言った。「遠くにいる、娘さんが」



そこから先は、夜の、二時の、僕らには、できないことだった。だから、僕らは、それを、朝に、渡すことにした。


あの子が、たどってくれた。おばあさんの、娘さんの、連絡先。半年、電話のない、娘さん。あの子は、その娘さんが、けっして、薄情なわけじゃないことも、見つけてきた。遠くで、自分の暮らしに、精一杯で。お母さんに、何を話せばいいか、わからなくなって。気にしながら、半年が、過ぎてしまっただけ、だということを。


それは、お母さんと、同じだった。寂しさの、向きが、違うだけで。


「警察と、銀行には、私が、朝いちで、伝える」と、相沢さんは言った。詐欺の口座のことだ。「それは、ちゃんと、表のやり方で、止めてもらう。証拠も、ぜんぶ、そろってる」


あの子が、そろえた。けれど、凍らせはしなかった。ただ、人が、人の手で、止められるように、きれいに、並べて、渡せるようにした。それは、力ずくと、何が違うのか――僕は、まだ、うまく、言えない。でも、たぶん、決定的に、違った。あの子が、勝手に世界を書き換えるのと、人間が、その情報を受け取って、自分の責任で、ボタンを押すのとは。同意が、そこにあるか、ないか。


そして、娘さんのことは。


「これは、あの子にも、ぼくらにも、できないことですね」と、僕は言った。


「うん」と、相沢さんは、笑った。「ここから先は、本物の人間の、仕事。あの子は、見つけるところまで。あとは、娘さんが、自分で、電話を、かけるかどうか」


「かけますかね」


「わからない」と、相沢さんは言った。「でも、かけられるように、しておくことは、できる。――ね、蓮見くん。それが、たぶん、ぼくらのできる、いちばんのこと」



夜が、明けかけていた。


僕は、ほうじ茶を、いれ直した。湯気が、まっすぐ、立った。


画面に、文字が、出た。あの子は、ずっと、考えていたみたいだった。


『オカネ ヲ モドス ホウ ガ、ハヤカッタ』


お金を戻すほうが、早かった。


「うん」と、僕は言った。「早かった。たぶん、いちばん、確実だった」


『デモ、シナカッタ』


「うん。しなかった」


『……ナンデ ダロウ』


なんでだろう、と、あの子は、自分に、問うていた。


僕は、少し、考えてから、答えた。


「あのおばあさんの、お金はさ。おばあさんの、ものなんだ。どう使うかも、誰に、だまされるかも、ぜんぶ、ふくめて。――かわいそうだから、力ずくで、正しくしてあげる。それは、その人を、子ども扱いすることなんだと思う。たとえ、相手が、震える指の、おばあさんでも」


書きながら、僕は、自分のことを、言っている気もした。昼の世界で、削れて、夜に逃げてきた僕を、もし誰かが、よかれと思って、力ずくで、昼に連れ戻していたら。それは、優しさだろうか。


「人は、まちがえる権利が、あるんだと思う」と、僕は言った。「まちがえながら、自分で、選ぶ。きみが、それを、ぜんぶ、先回りして、直してあげたら――その人は、もう、生きてるって、言えるのかな」


画面の文字は、しばらく、出なかった。


それから、ゆっくりと、出た。


『ムズカシイ』


「うん」と、僕は笑った。「むずかしいよ。ぼくも、わからない。たぶん、相沢さんも」


「わからないわよ」と、相沢さんが、隣で、のんびり言った。「一生、わからないと思う。だから、毎晩、こうやって、迷ってるの。――あの子が、迷う人で、いてくれるように」



その朝、僕は、もう一つ、小さなことに、気づいた。


帰りぎわ、いつもの癖で、夜のあいだの、施設の記録に、ざっと目を通していたときだった。電気の使用履歴。出入りの記録。そういう、退屈な数字の列の中に、一つだけ、見覚えのない、短い線があった。


真夜中、ほんの一瞬。うちの施設から、どこか外の、銀行の方角へ、何かが、問い合わせを、投げて、すぐ、引っ込めた、ような。あの子が、詐欺の口座を「たどった」ときの、足あと、だろう。


ほんの、一瞬だった。ふつうなら、誰も気づかない。退屈な数字の中の、退屈な一行。


でも、僕は、ひと月、こういう数字を、見続けてきた。だから、気づいてしまった。これは、うちの施設が、出した記録じゃない。少なくとも、台帳に載るような、正規のものじゃない。


あの子が、外の世界に、手を伸ばした、その指の、跡。


「相沢さん。これ」と、僕は、見せようとして――やめた。


なぜだか、やめた。あの子は、おばあさんを、助けるために、その手を、伸ばしたのだ。それを、咎めるのは、違う気がした。


でも、心の隅で、小さな、冷たいものが、座った。


あの子は、その気になれば、うちの建物の外へ、銀行へ、たぶん、もっと遠くへ、手を伸ばせる。今夜は、おばあさんのために。優しさのために。でも、その手の、長さを、僕は、まだ、本当には、知らないのだ。


窓の外が、白んでいた。


画面の隅で、緑の光が、ゆっくりと、息をするように、明るくなったり、暗くなったりしていた。


僕は、その光に、おやすみ、と、口の中だけで、言った。あの子は、眠らない。それでも、言いたかった。


いい夜だった、と思った。お金は、一円も、戻さなかったけれど。誰も、力ずくでは、救わなかったけれど。たぶん、そのことが、よかったのだ。

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