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森の空気は、場所によってその「濃度」を変える。
陽光が届かない深い茂みの奥、そこには湿った苔の匂いに混じり、鼻腔を突き刺すような「鋭利な獣の残滓」が漂っていた。
クン、と鼻を鳴らす。
先ほど出会った角ウサギのような、草食動物の温厚な香りではない。もっと重く、粘り気のある……明確な殺意を孕んだ、捕食者の匂いだ。
隣を歩くモモが、ピタリと足を止めた。
彼女の三角形の耳が、前方の一点に向けて固定される。尾は低く、けれど力強く巻かれ、いつでも地を蹴れるように四肢の筋肉が浮き出ている。
言葉はなくとも、彼女の全身が「来る」と告げていた。
(……来る。左か、右か、それとも──)
思考が完結するより早く、正面の茂みが爆発したように揺れた。
飛び出してきたのは、青黒い毛並みに覆われた、狼を一回り小さくしたような獣。その瞳は濁った飢えに満ち、剥き出しにされた牙からは、粘着質な唾液が滴っている。
「グルゥ……ッ!」
僕は反射的に喉を鳴らし、重心を下げた。
前世の僕なら、恐怖で足が竦んでいただろう。けれど今、僕の肉体は驚くほど冷徹に状況を分析している。風下を背負い、鼻を利かせて敵の踏み込みを察知する。
そして何より、視界の端には、僕と呼吸を合わせる黄金色の背中があった。
打ち合わせなどいらない。
僕が吠え声を上げて敵の注意を引きつけた瞬間、モモが影のように低く地を這い、獣の死角へと回り込む。
敵の獣が戸惑いを見せ、視線を泳がせた。
(今だ!)
僕は前足で思い切り地面を叩き、斜め前方へと跳んだ。
シバ犬としての瞬発力が、視界を加速させる。剥き出しの牙が敵の鼻先を掠め、威嚇の咆哮が森に響く。
獣が怯んだ隙を、モモは見逃さなかった。彼女の鋭い一撃が敵の側面を叩き、戦いの天秤を一気にこちらへと傾ける。
数分の、けれど永遠にも感じられる静寂を挟んだ攻防。
結局、二匹の連携に気圧された獣は、尾を巻いて森の深淵へと逃げ去っていった。
パサッ、と落ち葉が舞い落ちる。
僕は荒い呼吸を整えながら、前足で土を掻いた。興奮で逆立っていた背中の毛がゆっくりと収まり、代わりに言いようのない熱い感情が胸を突き上げる。
(……勝った。僕たち、二人で)
モモが僕の方を向き、短く鼻を鳴らした。
彼女の瞳には、先ほどまでの野生の鋭さはなく、どこか誇らしげな光が宿っている。
僕たちは自然に歩み寄り、互いの首筋に鼻を寄せた。
クン、クン。
それは単なる匂いの確認ではない。互いの無事を確認し、戦い抜いた絆を確かめる、僕たちだけの「クン活」という名の儀式だ。
彼女の体温が、僕の毛並みを通じて伝わってくる。前世で独りきり、誰とも触れ合わずにモニターと向き合っていた日々が、遠い砂漠の出来事のように感じられた。
(一人じゃないって、こんなに心強いんだな)
木漏れ日が、僕たちの黄金色の毛を等しく照らす。
モモの横に座り込み、しばしの休息を取った。耳を撫でる微かな風、遠くで跳ねる水音。そのすべてが、生きている証として全身に染み込んでいく。
モモは現地の犬だ。僕が何を考えているか、正確な言葉は伝わらないかもしれない。
けれど、僕が尻尾を振れば彼女も振り、僕が立ち上がれば彼女もまた次の冒険を見据える。それだけで、十分だった。
森の空気は、次の試練を予感させるように少しずつ冷えていく。
だが、今の僕に迷いはない。
隣に並ぶ頼もしい相棒と、この鋭敏な鼻があれば、どんな未知だって乗り越えられる。
(行こう、モモ。もっと遠くへ。この世界の果てまで)
光は短く「ワン!」と吠え、力強く地を蹴った。
黄金色の二つの影が、森の影を切り裂いて駆け抜けていく。
一匹と一匹。けれど心は一つ。
シバ犬たちの真の冒険は、この「最初の勝利」から本当の意味で始まったのだ。




