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森の空気は、場所によってその「濃度」を変える。
陽光が届かない深い茂みの奥、湿った苔の匂いに混じり、鼻腔を鋭く突き刺すような「甘い獣の残り香」が漂っていた。
クン、と鼻先を突き出す。
それは無機質な植物の呼吸ではない。確かな体温、生命の脈動を伴った、自分と同じ種族に近い存在の証だ。全身の神経が、期待と不安の入り混じった心地よい緊張に震える。僕は慎重に前足を踏み出し、三角形の耳をレーダーのように広げた。
巻尾をわずかに高く保ち、乾いた落ち葉を鳴らさぬよう音を殺して進む。柔らかい肉球が大地を確かに掴むたび、森の奥へと深く誘われていく。
(……誰か、いるのか?)
声にならない問いかけが脳裏を掠める。
立ち枯れた巨木の下をくぐり、木漏れ日がスポットライトのように差し込む小さな広場に出た時、不意に正面の影が動いた。僕は反射的に重心を限界まで低くし、シダの葉の陰に身を隠した。
そこにいたのは、一匹の犬だった。
細身でしなやかな体躯、陽光を反射して赤みを帯びた黄金色の毛並み。僕より一回り小柄だが、その立ち姿には厳しい自然を生き抜いてきた野生の鋭さが宿っている。
(……モモ?)
なぜだか自然と、その名前が心に浮かんだ。前世の記憶にある名ではない。ただ、桃の実のような淡い紅を差した耳の裏の色を見て、直感的にそう呼びたくなったのだ。
彼女もまた、僕の気配に気づいていた。
ぴたりと動きを止め、琥珀色の瞳でこちらを凝視している。背中の毛がわずかに逆立ち、尾が警戒を示すように低く保たれる。互いの距離は約五メートル。
ここからが、犬の世界における極めて繊細な「交渉」の時間だ。
僕はあえて視線を斜め下へと逸らし、敵意がないことを示した。人間なら言葉で済む話だが、今の僕たちは鼻と耳、そして尾の角度で互いの度量を測り合わなければならない。
沈黙の中、彼女が小さく「フンッ」と鼻を鳴らした。
接近の許可が出たのだと直感し、僕は一歩、また一歩と慎重に距離を詰める。
鼻先が届く距離。僕たちは同時に、身元調査——「クン活」を開始した。
彼女の湿った鼻先が僕の首筋をなぞり、僕もまた彼女の耳元の匂いを深く嗅ぐ。
それは、どんな言語による自己紹介よりも雄弁な情報交換だった。彼女が最近何を口にし、どんな危険な場所を通ってきたか。そして今、彼女の心がどれほどの不安と、それ以上の好奇心に溢れているか、そのすべてがダイレクトに伝わってくる。
彼女から漂うのは、熟した森の木の実のような甘い香りと、鋼のような野性の力強さ。
(……敵じゃない。仲間だ)
確信した瞬間、胸の奥から熱い安堵がこみ上げてきた。
孤独だと思い込んでいたこの未知の森に、同じ「熱」を持つ存在がいた。その事実だけで、世界の色が鮮やかに塗り替えられたような気がした。
僕が喜びを抑えきれず尾を高く揺らすと、彼女もまた、ピンと立った耳をパタパタと動かして応えてくれた。
その時だ。パサッ、と頭上の枝が不自然に揺れた。
刹那、僕とモモの動きが完全に同調する。二匹して重心を低くし、喉の奥から「グルゥ……」と低い唸り声を漏らす。
茂みから弾け飛んできたのは、耳が異様に長く、額に一本の鋭い角を冠した「角ウサギ」だった。
かつての僕なら、図鑑に載せたいほど可愛い動物だと思っただろう。だが、隣に立つモモの殺気と、僕自身の本能が冷徹に告げている——これは「獲物」であり、油断すればこちらの喉笛を貫く「脅威」なのだと。
モモが短く、鋭く鳴いた。
「行くよ」——不思議と、そう言われた気がした。
角ウサギが鋭い角を突き出し、地を削って突進してくる。
僕は左へ、モモは右へ。打ち合わせなしでも、自然と理想的な挟み撃ちの形が出来上がる。前世のデスクワークでは決して味わえなかった、背中を預けるという絶対的な信頼感。
光の目は、これまでにないほど鋭く輝いていた。
(一緒に進もう。モモ)
小さな決意を胸に、黄金色の二匹は同時に爆発的な勢いで地を蹴った。
新しい犬生の冒険は、確かな「絆」というエンジンを得て、さらに加速していく。
森は広く、風は無数の物語を運んでくる。未知の世界、未知の獲物、そして隣にいる未知の相棒——すべてが今、僕たちの目の前に、輝かしい荒野として広がっている。




