1 黄金の目覚め
意識が浮上した瞬間、世界は「音」と「匂い」の濁流となって押し寄せてきた。
まぶたの裏側にまで染み込んでくるような、湿った土の冷気。苔が呼吸する芳香。倒木がゆっくりと時間をかけて土に還っていく、微かな、しかし生命の循環を感じさせる独特の腐敗臭。
人間だった頃、鼻という器官はこれほどまでに饒舌だっただろうか。いや、違う。今、僕の鼻腔を駆け抜けている情報は、前世のそれとは比較にならないほど鋭敏で、立体的だ。匂いのひとつひとつに「色」と「距離」がついているかのような錯覚さえ覚える。
ぴくり、と右の耳が独りでに動いた。
続いて左の耳が、反対側から届く風のさえずりを拾い上げる。
数百メートル先で硬い嘴が幹を叩く乾いた音。地表を這う小さな虫の足音。それらすべてが、まるで最新鋭のレーダーのように、僕の頭の中に鮮明な立体地図を描き出していく。
「……ここ、は……?」
声を出そうとして、喉から漏れたのは掠れた吐息と、微かな「クゥ」という鳴き声だけだった。
重い体を持ち上げようと地面を押し返すと、掌——いや、「肉球」に伝わる土の弾力が、驚くほどダイレクトに脳に響く。湿り気を帯びた土の粒子ひとつひとつが、皮膚を通じて語りかけてくるようだ。四肢に力を込め、震える感覚を抑えながら、ゆっくりと身を起こした。
視界が、異様に低い。
見上げるシダ植物の葉は天を覆う傘のように巨大で、足元に転がる小石ひとつが、かつての縁石ほどの圧倒的な存在感を放っている。
ふと、視界の端に何かが映った。
自分の意思とは無関係に、くるんと丸まった「何か」が背中の上でゆらゆらと揺れている。
混乱する思考を落ち着かせようと、近くの岩陰に溜まった澄んだ水たまりへと這い寄った。
そこに映っていたのは、ピンと立った三角形の耳と、精悍なアーモンド形の黒い瞳。そして、赤茶色の毛並みに縁取られた、どこか凛々しくも愛嬌のある顔立ち。
……紛れもない、シバ犬の姿だった。
(……犬。しかも、シバ犬か)
前世の記憶が、霧の向こうから鮮明に蘇る。
僕は確か、窓のない無機質なオフィスで、青白いディスプレイの光に焼かれながら、終わりのない数字の羅列と戦っていたはずだ。空調の乾いた機械音と、何時間も前に淹れたコーヒーの焦げた匂い。それが僕の世界のすべてだった。
それがどうだ。今はどうだ。
ブルブルッ、と全身を激しく震わせてみる。
密集したアンダーコートがたっぷりと空気を孕み、皮膚を優しく刺激する極上の感触。背中の上で跳ねる巻き尾の重み。一連の動作が、驚くほど滑らかで、本能に忠実で、心地いい。
人間だった頃の、鉛のように重かった肩の凝りも、四六時中疼いていた眼精疲労も、すべてが嘘のように消え去っていた。
光──それが僕の、かつての名前だ。
名前を思い出した瞬間、内側から熱いものがこみ上げてきた。
前足で水面を軽く叩く。波紋が広がり、水面に映る「シバ犬の僕」が歪む。
その瞬間、風向きが急激に変わった。
クン、と鼻先が勝手に動く。
森の奥深くから、未知の情報の断片が届いた。
それは、ただの自然界の匂いではない。微かに混じる鉄のような鋭い香りと、獣の体温を思わせる重苦しい気配。
(……敵意か?)
瞬時に全身の毛が逆立ち、重心が限界まで低くなる。
耳を伏せ、喉の奥から「ウゥ……」と低い唸り声が漏れた。
自分でも驚くほどの速さで、野生の本能が論理的な思考を上書きしていく。茂みの僅かな揺れ、風の淀み。それらすべてが「生存のための情報」として処理され、最適な戦闘態勢へと体が導かれる。
だが、その殺気はすぐに霧散した。
代わりに届いたのは、もっと柔らかく、どこか懐かしさを覚える香気。
(違う。これは、警戒じゃない。……誘い、か?)
一度地面を深く掻き、鼻を地面に近づけて「クン活」を開始する。
土の上に残された微かな痕跡。そこには、自分と同じ「熱」を持った存在が通り過ぎた名残があった。
孤独だと思っていた異世界。
縁もゆかりもない場所に放り出され、たった一匹で朽ちていくのだと絶望しかけていた。
けれど、この鋭敏な鼻は、僕に「繋がり」の可能性を告げている。
森の深淵を見据える。
日光が木漏れ日となって黄金色の毛並みを照らし、一歩踏み出すたびに肉球がしっかりと大地を掴み、反発力を伝えてくる。
前世では、誰かに決められたレールを死んだ魚のような目で歩くだけだった。けれど今、この四本の足は、自分の意志で行きたい場所へ行ける自由を手にしている。
(一人じゃない。仲間が……誰かが、この先にいる)
期待が心臓を強く叩き、丸まった尾がわずかに高く、誇らしげに揺れた。
せせらぎの水音、土の深い呼吸、そして遠くから届く仲間の呼び声のような風。
光は、新しい人生——いや、「犬生」の第一歩を、力強く踏み出した。
シバ犬として。
この世界の、どんな英雄よりも鋭い鼻と耳を持って。
黄金色の疾風が、森の静寂を切り裂いて駆け抜けていく。
その背中には、もう一筋の迷いもなかった。




